2016年12月15日 第51号
イラスト共に片桐 貞夫
「らっしゃいまし」
頭を下げようとした男がとまどったような動作をした。リュウの面貌のためであった。
下ぶくれで目が細く、色の白いことを美人の三要素としたこの江戸末期、すべての点でリュウは破格であった。リュウは目が丸くて睫が長い。色が浅黒いうえに髪がくせ毛で紅いのであった。リュウの故郷糸満は、古来南方からの漂着民がよく流れ着いたところで、沖縄島の中でもこうした異貌が多かったのだ。
「ちょっと休ませてください」
雨具を脱ぐと、リュウはにっこりと笑って言った。
「よく降りますわね」
リュウの声音が変わっている。鼻にかかって色気がある。どう見ても良家の妻女のものになっている。
「いつになったらやむのかしら」
「へぇ」
男の目がリュウから離れない。
「このあたりなんですってね、くまおとこが出たっていうのは。…ああー、おそろし、おそろし」
「あっ、あのことで」
男がようやく口を開いた。
「あれが捕まって、私どももほっとしております」
「人を食べてしまうなんて、ああおそろし」
「いやいやもう安心です。どうぞゆっくりしていって下さい」
そして、手代はもちだんごの注文を取って奥に去っていった。
リュウははじめてあたりを見まわした。
でいの間がある。農民たちから訴えごとを聞く白州である。名主小野籐左右衛門は、お上から上田村の「世話役」も任されているらしい。
男が茶とだんごを盆に乗せて戻ってきた。
「このたびはどちらまで」
振り分けを持つリュウを旅する者ととったのだろう、手代は静かに微笑んで訊いた。
「三浦の爪崎に妹がおりまして、ヤヤがもうすぐ生まれるんです。行ってやらなくっちゃならないんですよ」
リュウは用意していた嘘を言った。
「そうですか、でも、そりゃあちょいと無理っていうもんですよ。こんな雨ですので、そこの川だって越せないでしょう」
「そうですよね。怖くって渡れなかったわ。だからここに寄らせてもらいましたのよ」
「どうです、お泊まりになっていらっしゃったら」
「あら、ここは泊めていただくこともできるんですか」
茶どころが客を泊めるということはリュウも聞いたことがある。
「明日になったら雨も止むかもしれません。それから行かれたらいいですよ。こんな時ですのでお安くしておきます」
「それはいいあんばいですわ。戸塚の宿まで戻らなければならないって思っていたんです」
リュウは泊まってみようという気になっていた。上田の村ではめぼしいことが得られなかった。ただ、堰板を外すよう権三に頼んだ者が出てきた。それがこの「かみや」であり、権三は唯一の証言者であった。リュウは、この屋敷の裏側にリュウの求める何かがあるような気がしたのだ。
「泊まって頂ければ主人も喜びます」
「挨拶させていただこうかしら」
リュウは名主の小野籐左右衛門に会いたいと思った。
「おこころざしは嬉しいんですが、主人は、あいにく留守にしております」
「あらそうですか。お帰りは遅いんですか」
「明日、帰ることになっております」
手代はそれ以上は問答無用とばかりに去っていった。
夕飯までのあいだ、リュウは、部屋を間違えた、洗い物をしたいなどと可能な限りの訳を言っては屋敷内を歩いた。池を見たいと、雨降る庭にも出た。
台所に四十過ぎの飯炊き女が三人いる。応接した源六の他に三人の男の姿を認めた。その内の一人が上田村の権三を呼び出した仙次郎だろう。しかし、籐左右衛門の妻らしき者や、子供の姿はどこにもなかった。
四
なにごともなく朝の気配がするようになった。
リュウは、他に泊まり客もない大部屋の布団の中で黒い天井を見つめていた。いつでも行動できるよう、闇に目を慣らしてきたのだった。 リュウが一睡もしなかったのには訳があった。いつも監視されていることを感じたからであった。
(続く)