2016年10月27日 第44号
イラスト共に片桐 貞夫
一
「じゃあなっ」
「親方によろしく言っとくれ」
横瀬の立場で一緒になった伝馬の茂吉と別れると、リュウは東海道を左に折れた。大橋の手前で柏尾川の堤にのったのだ。
「くちぼそ」と呼ばれる小魚の跳ねるせせらぎが、日毎の雨で濁流と化している。茶色くにごって渦巻いている。リュウは合羽を揺すって雨滴を払い、顔を戻して前方を見た。
茂吉の吐いた口舌がリュウを暗鬱にしていた。
留守にした五日の間に、この戸塚の宿で引きまわしがあったという。女殺しの半裸の男が、うしろ手縄で町なかを歩かされたというのであった。
「そいつときたひにゃ並みじゃねえ。化け物みてえなんだよ。歩き方までもが、熊かイノシシってぇとこなんだ」
男は片目がつぶれて首がない。歯を牙のように剥き出して見物人に吠えた。
「気味が悪ぃーのなんの、思い出してもぞっとするぜ。顔も身体も毛だらけなんだ」
蓑に短躯を埋めた茂吉が、から馬ひく手を上げて大げさに顔をしかめた。異形の男は女を喰ったという。乳や尻を食われた女の裸体が、染谷の池に浮いていたというのであった。
「そいつぁー前にも何度か女を喰ったらしいんだが、あかしがなかったそうだ。けんどもういけねえ。喰ってたところを見た奴がいるだよ」
引きまわしといえば死罪である。その男は、十日以内に小袋谷のしおき場で打ち首になるはずであった。
リュウは、柏尾の堤から下りて大松の二股を右に曲がると、はじめて歩調をくずした。リュウに安堵の表情が沸いた。四つ並んだ屋根が見える。双子地蔵の豆鳥居が、いつものように左肩を下げている。仮の住まいであった筈のこのそでなし長屋も五年になる。六畳二間のめしや稼業が、いつの間にか女六人の住む大所帯になっていた。
リュウは、木戸門をくぐって人気のない露地に入った。雨であふれる天水桶をかわすと、「くじらめし」と大書きされた腰高障子が見えてきた。
井戸端で桶屋の女房がしゃがみ込んでいる。幼い娘に傘をささせ、釜と茶碗を洗っている。
リュウが声をかけた。
「えらいんだねヌイちゃんは。お母ちゃんのお手伝いかい?」
ヌイとおぼしき少女が恥ずかしげな素振りで顔を上げ、その母親がにっこりと笑って頭を下げた。リュウに古巣に戻ったという実感が湧いた。琉球の大島も南端・糸満生まれのリュウはその容貌を異にする。一般の日本女と違って目が大きく、鼻が細くて彫りが深い。人に特異な目で観られるのがいつものことであった。しかしこの長屋ではそれがなかったのだ。
リュウは表口の前を横切って裏に回った。
小さなチヨがかまどの灰を移している。塩樽の中をのぞき込んでいたフサの方が、リュウの姿に気がついた。
「あらあらあら濡れちゃって、ごりょうさん」
「ただいま」
「大変だったわねえ。さあさあ入って」
「ああ、帰った帰った」
リュウは軒下に立って一息つき、笠をとって合羽の首紐に手をやった。
「びちょびちょね」
フサが手を拭ってから後ろにまわってリュウの合羽を取った。それから、かまどの前でしゃがみ込んでいるチヨに言った。
「チヨちゃん、それあとまわしにしてすすぎを持ってきてちょうだい」
すすぎとは洗足桶のことである。
「はい」
チヨが小さく返事をして腰を上げた。
しょうがの香りに醤油の煮える甘い匂い。こんな雨だというのに、今日も大分、客が入ったようだ。
「やだねえ」
シノが奥から出てきた。
「この濡れ天気だってぇのに、どこから帰ってきたんだい」
老いたシノは、笑顔も見せず怒ったように言った。無理しがちなリュウを心配している。
「六浦よ。六浦から帰ってきたんだ。やっと見つかったんだよ」
嘘である。リュウはくじら肉を仕入れに上総までも足を伸ばしたのだが、どこにもなかったのである。しかし武蔵国との国ざかい大棚に、脚を折った駄賃馬がいることが判った。リュウの懇意な六角橋の元締めが調べてくれ、屠殺、塩漬け、荷送りの話をまとめて帰ってきたのだった。
(続く)