2016年11月3日 第45号
イラスト共に片桐 貞夫
リュウはくじら肉を食わすめしやをやっているが、くじらの肉が手に入らない時、馬肉を使うことにしていた。馬肉は色も歯触りもほとんど変わらず、鶏肉よりずっとくじらに似ていたが、四つ足の食肉を忌み嫌ったこの当時、リュウはシノやフサにも嘘をつかねばならなかった。
「雨があがったら届けてくれるらしい」
「よかったわ。こんなに帰りが遅いんで、もうないのかと思ってたのよ。… はい、ひとくち」
フサが答えて湯気のたつ湯のみをリュウに出した。
「ありがと。でも、これを先に換えるわ。チヨちゃん、矢たけの絣を持ってきてくれないかい」
リュウは帯を解いてからチヨに言い、三十を越したとは思えない豊満な乳房をあらわにした。濡れっぱなしで家路を急いだからであろう、はだけた肩から湯気が上がっている。
「まあまあ、ずぶぬれね」
フサが脱いだものを手にして言った。
「この合羽、あんなに油を塗ったのにねえ。それにしても今年のつゆはいつになったら終わるのかしら」
もう七月になろうとしているのに雨はやみそうもない。
「でも、今度の肉はいいそうだよ。めなしくじらとかいって柔らかいらしい」
リュウがまたうそを言った。
腰のものも脱いで、着古し一枚になったリュウは、腰を下ろして湯のみを手にした。そして、めしや稼業をまかなう三つの顔を一つ一つ見た。
「茂きっさんが言ってたけど、あたしなんかいなくったってちゃんとやってたそうじゃないか」
リュウの留守中にメシを喰いに来たという伝馬人足の茂吉が、三人の仕事ぶりをリュウに喋ったのだ。
フサが答えた。
「二、三日だけのことですよ。ねえ、おシノさん?」
「そうだよ」
フサはここで働くようになってから、まだ、ふた月しかたっていないというのに、リュウに代わって勝手をきりまわしていた。以前、料理屋の下働きをしたことがあるとかで、フサはくじらの琉球煮という珍しい味付けをうまくこなし、手短に入るニラや菜草で気の利いた添え物も作るようになっていた。リュウより四、五才は上らしいが、小柄で色が白く、小娘のような顔立ちをしていた。
「今日だって、おこぼれ切らせちゃって、お客さんに怒られたのよ」
「こぼれ汁なんてどうだっていいんだよ。余ろくで出してるんだから」
リュウがあたりを見回して続けた。
「それにしても、どこもかもかたづいてるし、よくやってるよ。それにチヨちゃんも慣れてきたみたいだね」
「ん」
ほおかぶりをして坊主頭を隠すチヨが、恥ずかしそうにうなずいた。毛は、まだ二寸にもなっていない。チヨは、人買いの巣窟であった戸塚は二番坂の千隆寺で、他の二人の娘と頭を剃られて稚児をしていた。島原に売り飛ばされる寸前をリュウが救けたのだった。
「ミエちゃんたちも、そろそろ帰ってくる頃じゃないかい」
ミエは同じ長屋の髪結床に、サキは川向こう鍛冶町の仕立問屋藤代屋にかよいで子守奉公している。リュウは身寄りのない三人を引き取って世話をするようになったのであった。
「おサキちゃんのことなんだけど」
フサが声を神妙に変えてリュウに言った。
「ようすが変なのよ。食べないし泣いてばっかりいるの」
サキはチヨやミエと同様、まだ十二になったばかりだというのに、女としての肉体を使った酷虐な過去を背負っている。千隆寺から連れてきた頃は人の目色ばかり気にする陰鬱な娘であったが、フサをはじめとする周りの親身な思いやりで明るくなってきた。チヨやミエといたわりながら、やっと笑顔を取り戻してきたのであった。ところが、そのサキの様子がおかしいとフサは言う。
「泣いてばかり? いつ、いつからだい。どうしてだい」
興奮するとリュウの声は太くなる。特に、この三人の娘のことになると異常なほどに敏感になる。
「それが、いくら訊いても言わんのよ。三日ほど前からなんだけど」
「三日まえ? なにがあったんだい。いったい、なにがあったんだい。チヨちゃん、あんたなんか知ってるんかい」
しかし、チヨはなにも言わずに首を振るだけであった。
(続く)