2020年3月26日 第13号
父兄保護者殿一九四一年十二月廿二日
時局の影響を受けて三十六年という永い歴史を有する本校も一時閉鎖しなければならぬようになりましたことは御同様遺憾に存ずる次第でございます。
顧りみますと私が本校に厄介になりましてから廿五年になりますが、その間は実に日本語学校の発展時代であり充実時代であり黄金時代でもありました。私は誠に小さい人間でありアナだらけ、欠点だらけの者でありましたが、こうした時代に遭遇し日本民族の発展と加奈陀(カナダ)文化の向上に幾何なりとも関与し得ましたことは 誠に有りがたいことであり 幸福のことであり光栄のことでもありました。併しこれも私の主義主張に対し 常に御批正と御支援とを御与え下さいました賜と厚く感謝申し上げます。
本校もいつ再開するかの見通しがつきませんから この機会に御礼の御挨拶を申し上げておきます。どうぞ今後とも相変らず御交譚の程お願い申し上げます。
『NNM 1996.170.1.14.32』
寒中御見舞 一九四二年十二月
本年は殊の外寒気も厳しいようでございますし、その上皆様慣れない風土にての御生活故、何や彼と御不便御不自由がおありのこと察しされますが 如何ですか。
移動当時は緑色に包まれていました当地も、只今では一面純白の雪に埋められ「三千世界銀色をなす」の句そのままの美観を呈し、それに映じる日の出前後の空の荘厳さはまた格別でございます。朝な朝な枯枝に結ぶ霜の花も美しく、夏の間茶色であった「いたち」が全毛白色に変し道端の雪の間をもぐり歩くのも珍しく、可憐なる山雀が二つ三つ軒下に餌をあさりにまいりますのを見ては故郷の幼時を回想させられます。気温は現在零度を上下していますが、零下二十度、三十度(氷点下五十度、六十度)に下ることも度々ございます。併し家は二重ウインドウになって居りますし、外出には帽子頭巾を重ね、耳被り鼻被りをかけ、手袋靴下を二重に用いて居りますし、その上空気が乾燥して居りますために、寒暖計が示す程の寒さは感じないようでございます。
移動早々に播種いたしました野菜物も、霜害にあった唐蜀黍、豆等を除いては総べて大豊作で、馬鈴薯、人参、キャベージ等は地下室にかこいましたから、この冬は総菜には不自由しないだろうと喜んで居ります。来年こそは本年の経験をもととして、草花野菜物を栽培し、より良き収穫を上げようなどの小さい希望を抱いて居ります。呵々。
年暮れぬ笠着て草鞋はきながら
芭蕉
本年は恂にあわただしい中に過ぎて行きました。雨霧風雲を凌ぐだけの伏屋に住み、自然の恵み、土の恵み、人の情などで細い煙を立ててまいりました。併し一方同胞は四散し思うような便りもなし得ず、何時再会し得るかもわからず、生れて初めて餠なき正月を迎えることを思う時、旅の身…笠着て草鞋はきながら…の心境を感じるのであります。但し芭蕉は旅にあって少しも一つ処に足踏みをしていることなく、絶えず新しい境地を開拓して先へ先へと進んで居ります。この度同胞がクベック州に、オンタリオ州に、マニトバ州に、サスカチワン州に、アルバタ州に、またビーシー奥地にと、まづまづ全加奈陀(カナダ)に移動しました。そして寂しさを心の底に懐きつつ活動しています。これも前進です。広い天地を広く使用することです。それがやがては新天地を到る処に開拓する基を作り得ることともなりましょうし第二の草分時代として、同胞史の上に留めることにもなりましょう。なお、これが「禍を転じて福となす」所以でもあります。
右、寒中御見舞をかねて近況を御知らせいたします。折角御自重の程御祈り申し上げます。
追伸、本年は年末年始の挨拶を失礼いたしますから御宥恕下さい。
『NNM 1996.170.1.14.35』
一九四三年八月八日
永らく御無沙汰いたして居ります。その後は如何御暮しでございますか御伺い申し上げます。私共も当地移動以来一ケ年余を経過いたしましたので、アルバタの生活にも慣れてまいりました。前にも申し上げましたように、当地は所謂プレリーの地にも似ず、ポプラ、樺、白樺等が到る処に繁茂し、その間に幾つもの湖が美しい水を湛えて居りますし、只今では野も丘も深緑に覆われて居ります。いつも日本の秋を思わせる如く、空高く朝日によく夕日によく月によく星によく、禽鳥の囀りまた面白く、夜には鳥の声さえも聞くことが出来ます。BC州に見るような果物はありませんが、野菜物の不自由はありません。
私共の畠も五月十日より色々の種子を播きましたが、昨今は相当立派なものとなってまいりました。当方白人などと会いましても、ポテトーはどうか人参はどうかなどと農作物の話題に興を覚える程になって来ましたので、自分ながら微苦笑を禁じ得ません。
社交的方面では当地カレージの教授、学生との交友も沢山出来、去る五月七日には特にカレージに日本ナイトの催しもあり、私と風村秀夫君とが講演をいたしました。教授、学生、並に当地の人、二百人余りが集まりました。それより前、カレージの生徒六人を小生宅に招き、日本着の着方などを教え、日本ナイトには白人の日本着姿を紹介し、食器その他の日本物を展晩いたしましたので、来会者の満足を得ることが出来ました。その後とも教授や学生が次から次へと拙宅に訪ねてまいりますので、晩香波(バンクーバー)に居りました才、卒業生が拙宅にまいり深夜まで楽しく語った時代の延長を幾分なりとも当地で味わうことが出来るように感じて居ります。右のような次第で、比較的教育的雰囲気の中に、自然の声、自然の色、自然の味、自然の香を鑑賞し得、所謂花鳥風月を友としての生活をいたして居ります。
併し一方また、三十年間精魂を傾けて築き上げた学校をすて、教え子と別れ、何時また昔の盛時に合し得るかを思う時、寂しさを覚えてまいります。夢に現われるのも教え子の顔であり、学校の教室です。
でも加奈陀(カナダ)中に散在している教え子や知人が、次から次へと珍らしい便りや写真などを送ってくれますので、これのみは誠に嬉しく感謝の涙を以て之を見慰めこれています。
酷暑の折角御自愛御加餐の程、御祈りいたします。
右、御無沙汰を謝し近況の一端を御知らせ申し上げました。
『NNM 1996.170.1.14.36』
■ 佐藤伝 プロフィール
1891ー1983。福島県生まれ。東京青山師範学校卒業後、東京の小学校で教鞭をとる。1917年にバンクーバー日本共立国民学校に招聘され渡加。1921年に同校(共立語学校と改称)の校長となる。同年、阿波加英子(はなこ)と結婚。同じく東京の小学校で教えていた英子はバンクーバー共立語学校の教師としても招聘され渡加。1941年、太平洋戦争勃発のため、日本語学校閉鎖を命ぜられる。1942年、カナダ政府の政策に従いアルバータ州ラコム市に移動。1948年、カナダに帰化する。1952年、バンクーバーに帰還、学校再開運動に着手し、同 年BC州文部省の許可を得て、バンクーバー日本語学校を再開する。1966年同校を引退。1978年、その功績が認められオーダーオブカナダの一員となる。
(提供 日系文化センター・博物館『佐藤伝、英子コレクション』 /活字化 宮原史子)