2020年3月12日 第11号

はじめに

 私が佐藤伝(つたえ)先生の山のような手紙の原稿と出会ったのは2019年の夏です。ボランテイアをしている日系博物館の資料室で「このいくつかのファイルに入っている手書きの物は何なんでしょう」とファイル箱を渡され、ひとつひとつ出して古い原稿用紙を読み始めたのがきっかけです。

 書かれたのは1923年から1952年にわたり、ということは70年から100年前ですから、昔ながらの漢字、かな遣いですが、読んでいる内に 何と新鮮で心が洗われるようだろう、と感銘を受けました。当時の様子が生で伝わって来る他、佐藤先生の美しい日本語、教え子達に対する愛情、教育、文化保持に対する情熱等がほとばしるようです。

 佐藤伝、英子(はなこ)御夫妻の共著による「日系カナダ人の日本語教育−続:子どもと共に五十年−」(1976年出版)に当時読売新聞記者だった伊藤一男氏が「かつての日本では、あまり恵まれない家庭の子弟が、数多くこの門(師範学校のこと)をたたいた。もし、彼らがもっと恵まれた環境に育ったなら、いわゆる世のエリートコースを歩んでいただろう。それだけ、師範学校には、優秀な逸材が集結した。そして、彼らには、現代を担う少年、少女を育てるという崇高な自負心があった。」と序章に書かれていますが、佐藤両先生はその優秀な中でも秀でて優秀な方達だったようで、教育に対する情熱も並ならぬものがあった。そういう方達を先生にもったバンクーバー日本語学校の生徒さん、親御さん達、そしてこのカナダ社会はなんと幸運だったのでしょう。

 太平洋戦争勃発までカナダに移住した日本人はバンクーバー近辺に集まっていましたし、佐藤両先生の発案で他の地域の日本語学校とも対話をし日本語教育の質向上に努めたということで、カナダの日系社会全体が佐藤両先生の恩恵を受けたわけです。実際、バンクーバー日本語学校は優秀なバイリンガルを生み出し、戦前に日本に帰った生徒さんや、戦争のためにカナダ中に散らばることになった二世の教え子たちが日本社会、カナダ社会に貢献することになるのです。(戦前日本に移った教え子、卒業生の中にはのちにジャパンタイムズの編集者になった女性、あるいは東京大学教養学部国際語科長になった方達がいらっしゃいます)

 手紙の原稿は、コピー機が無かった時代ですから、どういうことをいつ誰に書いたかという記録として保存されていたのだと思います。私以外の日本人、日系人の方達にも是非読んでいだだきたいと思い、日系博物館のスタッフの了解を得、数あるお手紙の中から、いくつかバンクーバー新報さんに連載していただくことをお願い致しました。

 漢字、かなとの組み合わせ等は今とは異なっている面もありますが、原稿どおりにできる限り忠実にタイプしております。ただかなの使い方だけは、若い方たちには読みづらいのでは、と思い、現在のかな遣いにさせていただきました。

(文 宮原史子)

 

震災当時の晩香波(バンクーバー)より

一九二三年十月

 左記は千九百二十三年十月母国関東地に起った大震災時、私の恩師や知人に送ったもの。

 九月一日でした。丁度土曜日の午前九時でした。新聞社から「横浜が大火のようだ。電文が簡でそれ以上はわからぬ。君の処に横浜についての写真がないか」と私に尋ねて来ました。その時私は別に気にも留めませんでしたが、一日置いて九月三日(九月二日は日曜ですから新聞はありません)の朝、「号外!号外!」と盛に叫びまわるのです。見れば号外を自動車に積んでラッパをならしながら通ります。私が当地に来ましてから号外も自動車で売りあるくなどは、はじめての経験です。これだけでも此の度の震災は世界の人々を如何に驚愕さしたかは想像されましょう。私も一部を求めました。第一面上部には二寸四方位の大きな活字を使って「東京大震災」と特に朱のインキにて見出しをつけてありました。

 「日本の大震災加うるに大火死者二十萬、傷者五十万、その被害を度知るべからず」などと書き、その上東京府庁、東京ステーション、銀座通、横浜埠頭、鎌倉大佛、及び田尻前市長等の写真をも掲げて居りました。私共の驚き心配は一通りではありませんでした。

 九月四日私共は直に本校児童に右の事どもを知らせました処、児童は義捐金を憐れな日本児童のために送りたいと申し出ました。其の夜本校卒業生も本校に会し、

一、母国の凶事に對し各自が深甚の弔意を表すべきこと

二、被災民の為に慰籍金を募集すべきこと

を決議し救済運動を起し、新聞紙にも発表して右を一般在留民にも訴えました。

 同夜、加奈陀(カナダ)日本人会は在留同胞各団体代表者を集め大救済運動を起すべく相談をなし、先ず五万弗を募金目あてとし取敢えず九月六日発のロシア号にてメリケン粉五十頓を日本にむけて発送しました。然して募金の方は日ならずして予定額を超過し十万弗となり十三万弗となりました。是等は直に当地領事館を経て電報為替を以て送付いたしました。

 同胞婦人は「在留同胞婦人会」を組織して衣服類の募集に着手、これまた数日中にそれ等が山の如く積まれましたので、九月十六日に第一回、十月四日に二回分を発送しました。右婦人団は当地赤十字社のために日本着の仕立物の援助もいたしました。当地赤十字社主催の日本人救済タッグデー(タッグデーとは「花の日」とか「慈善日」とかいうべきもので、街の四辻に立ってタッグを売る日なのです)には婦人団を初め本校卒業生女子が西洋婦人と共に四辻に立って、"Help homeless Japanese, please" 「どうぞ路頭に迷っている日本人を助けて下さい」といいながらタッグを売りました。西洋人なども非常に同情し、"Sorry" 「御気の毒のことで」など満腔の好意を示して呉れました。

 各教会やお寺では祈祷会や追悼会を催しました。かくの如く吾々は老若男女を問わず赤誠を表はし母国のために誠心誠意活動いたしました。

 米国が他国に先んじて救済運動を起し金五百万弗の予定のところ数日の中に八百万弗に上りましたが非常なる同情が集まったわけであります。

 加奈陀(カナダ)では臨時議会を招集し、政府は金二十万弗を支出し更に精神的には赤十字社の救済基金募集を援助すべきことを発表しました。特に排日云々と騒ぐ民衆が心から同情を表して活動したことは吾々の欣びとする処でした。

 当市などでも電信柱に救済広告びらを張るやら各教会では牧師が日本の惨状を説明して義捐金をつのり芝居、活動写真等でも幕合には必ず募金(コレクション)をいたしましたし、西洋人の小学校でも児童一般から募集いたしました。

 更にまた決死的看護婦を日本に派遣したことはすでに御承知でございましょう。その中の一人にミス・ステブラーという人が居ります。(日本人のために非常に好意を持って居ります。曽て日本婦人の為めに看護法の講習を開きました。)彼女は九月四日に赤十字本社から日本行の命を電報で受け、九月六日にはロシア号で出帆。御想像下さい。遠い日本に行くのに彼女の出発までの準備はたった二日限りなのです。彼女の生地は京都ですから父も母も兄も暇乞いに行く暇もなく、ただ電報で別れの挨拶をいたしたのでした。彼女は暗黒の世界、病魔の世界(つまりかく想像するのは当然でしょう)に単身勇進したのでした。九月二十三日エンプレス・オブ・オーストラリア号が当地に入港いたしましたが、同船は震災当地横浜で救済事業のために勇敢に活動したことはすでに御承知のことと思います。当市では、この船のために心から歓迎し敬意を表しました。尚同船にて渡加した避難者のためにも慰藉の方法を講じました。彼等の中には日本人の悪評を述べるものもありましたが、大部分は日本人の勇敢なる活動と犠牲的精神と同情心の強いのとを称揚して居りました。

 右御知らせまで。

『NNM 1996.170.1.14.31』

 

手紙の原本(NNM 1996.170.1.14.31)

佐藤伝、英子夫妻 (NNM 2010.23.2.4.472)

 

少年裁判所長

マッギール殿

(注:原稿には日付無し。このマッギール判事への回答は「日系カナダ人の日本語教育―続:子どもと共に五十年―」に含まれており、それによると1936年に書かれたものと思われる。)

拝啓

 御質問の「何故日本人間には不良少年少女が少ないか」という問題に対し、私は左の如く考えて居りますことを御答え申し上げます。

 第一に家庭的影響を挙げます。

一、日本人の家庭は温く子供と楽しみを共にします。

 日本に於ては家族主義が道徳の根本となっています。即ち親は特別子を愛し、子は親を敬い大切にするし、兄姉は弟妹を可愛がりよく世話をいたし、弟妹は兄姉に従順であるように教育されます。それがために、家庭の中がいつも温かく楽しみが多うございます。ここに居る日本人の家庭にもこの風習があり、その影響で罪悪を犯すことが少ないのではないでしょうか。

二、日本人は家名を重んじます。

 日本では家名を非常に重んじます。家族の一員の名誉は家全体の名誉として尊び、家族の一員の恥(不面目)は家族全部の恥として之を嫌います。そこで家族の全員が自分の家のために相互に警め合ひ励まし合うのが常です。之も犯罪の少ない一理由でございましょう。

 第二に日本語学校の影響を挙げます。

一、日本語学校では良い加奈陀(カナダ)人になるということを教えます。

 当地に住んでいる日本人の親達は英語を充分に理解出来ません。若し子供等が日本語を知らなかったならば、家庭内で親子間の融和が困難です。それでは家庭生活がスポイルされます。之を防ぐために、子供を日本語学校に通学させて、日本語を学習させます。日本語学校では、日本語を授けると共に「よきカナダ市民となれ」「加奈陀の道徳法律に遵え」「加奈陀の文化に貢献せよ」と教えます。

 それで日本人児童は公立学校でもよい成績を得ようと努めますし、道徳の上にも模範生徒になろうと努めます。

二、日本語学校は子供の保護の役をいたしています。

 子供の罪悪の一番多く行われる時は公立学校がひけてから後にありましょう。即ち夕方から夜にかけて子供等はストリートで遊び、活動写真見物に行き金銭を浪費するその間に悪い感化を受け、だんだん罪悪を犯す機会が多くなるわけです。

 然るに日本人の子供はその間に日本語学校で勉強をしていますから、罪悪を犯す機会が少なくなるわけです。時に日本人の子供にも悪いものも出ますが、これ等は日本語学校に通学していない者が多いようです。

 尚、日本語学校に来ていることによって自動車や電車のアクシデントも少ないようです。故に日本語学校は精神的にも身体的にも子供を保護する役をつとめます。その結果として犯罪が少くなるのではないでしょうか。

 第三に日本人社会の影響を挙げます。

 日本人は加奈陀に来て他の外国人同様、生命も財産も名誉も護られて安心して生活することが出来ます。之を喜び、加奈陀の国や人に感謝しています。それで吾々はこの恩に報いようとの心を持ち、子供にも良い加奈陀人になり、加奈陀のために尽くさせようと教えています。

 当地の日本人社会はこの精神で進んでいます。之れも日本人の子供の犯罪者が少ない理由ではないでしょうか。

『NNM 1996.170.1.14.28』

 

■ 佐藤伝 プロフィール
1891ー1983。福島県生まれ。東京青山師範学校卒業後、東京の小学校で教鞭をとる。1917年にバンクーバー日本共立国民学校に招聘され渡加。1921年に同校(共立語学校と改称)の校長となる。同年、阿波加英子(はなこ)と結婚。同じく東京の小学校で教えていた英子はバンクーバー共立語学校の教師としても招聘され渡加。1941年、太平洋戦争勃発のため、日本語学校閉鎖を命ぜられる。1942年、カナダ政府の政策に従いアルバータ州ラコム市に移動。1948年、カナダに帰化する。1952年、バンクーバーに帰還、学校再開運動に着手し、同 年BC州文部省の許可を得て、バンクーバー日本語学校を再開する。1966年同校を引退。1978年、その功績が認められオーダーオブカナダの一員となる。

 

(提供 日系文化センター・博物館『佐藤伝、英子コレクション』 /活字化 宮原史子)

 

 

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