2016年10月6日 第41号
「歴史は勝者によって書かれる」、「勝てば官軍」という言葉がある。それを裏返せば敗者というものは勝者によって好きなように書かれ、それが後世まで伝えられてしまう。勝負は時の運。一瞬の運の差で負けてしまったがために、無能、悪人として歴史に名を刻まれてしまった歴史上の人物を挙げればきりがない。勝利を手にした者がいる分だけ、もしくはそれ以上に敗者が存在している。それが戦国時代となれば、勝者か敗者か、生き残るか、滅びるかの時代である。勝利を掴み、栄光を手にした者は神のように崇められ、その者に敗れた者は無数にいる。だが彼らは本当に無能だったのだろうか? 彼らは本当に悪人だから成敗されたのだろうか? 一度の敗北で全てを失い、歴史の影に埋もれていったよりすぐりの英雄たちをここで紹介しようと思う。
戦国の覇者・織田信長。彼は天才と呼ばれ、彼の頭の中には今まで誰も思い描かなかった国という構想があった。そんな信長に敗れ、死んだため、後世には暗愚(あんぐ)で無能として伝わり、お気楽な貴族のイメージまでつけられた男がいる。それは信長の戦国大名としてのデビューである桶狭間の戦いの相手となった今川義元である。今川義元は信長よりも先に戦国大名としてデビューしており、信長の父・信秀と幾度か戦っている。そしてなんと、天才と呼ばれた信長の父・信秀は何度もこの今川義元に敗北している。今川義元は他国の大名に先駆けて戦国大名、つまり他国を侵略し、支配する大名となった男である。
駿府、遠江、三河をあっという間に手中に手に入れ、覇者(はしゃ)となる。戦の手腕もあり、東海道一とも呼ばれていた。それは軍師として仕えていた大原雪斎(だいげんせっさい)の存在が大きかったともいえる。だが今川義元のすごさは戦だけではなく、政治にもあった。「今川検地」という独自の検地方法にて税(年貢)を徴収する制度を作る。それにより、他国に先駆け、今川家は足利幕府より与えられた守護職という役職から独立し、日本史上初の戦国大名が生まれるのだった。
1560年6月12日義元は、信秀が死に、ほぼ無防備となった尾張へ侵攻し、桶狭間に陣を張る。今まで義元が尾張への侵攻ができずにいた理由には甲斐の武田家や相模の北条が背後を狙っていたからであったが、義元は武田と北条との三国同盟を結び、西への侵攻を開始する。この時の今川軍には諸説あり、2万とも4万ともいわれている。対する信長は3千から5千ほどで今川軍の10分の1の戦力であった。ここで政治的、軍事的才能を持った義元は鬼才・信長に敗れることになる。雨の中、2千による今川本陣への逆落としで今川軍は混乱に陥り、その混乱の中、義元は毛利新助(もうりしんすけ)という名もなき兵士に討ち取られ、今川家は滅びの一途を辿ることになる。
もし大原雪斎が生きていればこのような結果にはならなかったかもしれないが、時の運もまた戦である。あれだけの才を持ち、あれだけの軍師を持ち、駿府、遠江、三河を支配した『戦国大名』のパイオニアである今川義元も、たった一度、戦国の申し子ともいうべき男に敗北し、その全てを失った戦国の苛烈さを物語る人物の一人である。たった一度の敗北で命を落とす結果となったため、今川義元は無能なお気楽貴族として後世に名を残すこととなった悲劇の男でもある。
天才・織田信長は天下統一まで後わずかのところで命を落とした。1582年、いわずと知れた歴史的大事件、本能寺の変である。それを起こした反逆の大罪人として歴史に名を残したのが、信長の重臣だった明智光秀である。常日頃からの罵倒や暴力に耐え切れなかったから、敵方に人質となっていた叔母を信長が見殺しにしたから、など明智光秀の謀反の動機には様々な説がある。この明智光秀の人生の前半はほぼ謎に包まれている。「立入左京亮入道隆佐記(たちいりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)」の記述によれば、美濃の国出身であり、土岐明智氏の出であること以外資料があまり残っていない。
美濃の国主・斉藤道三と息子・斉藤義龍の骨肉の争いが起きた時、明智光秀は道三側についたという記録がある。道三は息子・義龍に敗北し、実の子に殺された。子が親に、親が子に殺されることは戦国時代では珍しいことではない。この戦で光秀は一度、歴史の表舞台から姿を消す。「多聞院日記」や「日本史」には光秀の出自の記載はなく、光秀は細川藤孝(ほそかわふじたか)の家臣として登場する。この時、光秀は音楽や文学などの教養、そして貴族との交流による人脈を持つ非常なる人物であった。
200年続く室町幕府の次期将軍・足利義昭の擁護役に選んだのが織田信長だった。織田信長が正式に天下統一へ乗り出すきっかけを作ったのは明智光秀であり、その際、光秀の持つ貴族との様々な人脈などが役に立ち、織田信長は将軍擁護という名目で他の戦国大名を出し抜くことに成功した。すぐに光秀は織田陣営の中でその地位を昇り詰め、織田四天王の一員となり、丹波一国34万石の所領を持つ。34万石と聞くと後の前田家の加賀百万石に比べるといまいちすごさが伝わらない。だが信長により、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶(つついじゅんけい)をはじめとする近畿地方の織田家臣たちは全員光秀の寄騎とされ、実質光秀の支配下は近畿地方一帯、禄高は合わせれば240万石であった。そんな男がなぜ、主君に対し、謀反を起こして主君を殺害したのか? それは今も歴史の七不思議の一つと数えてもいい謎である。
『三日天下』と呼ばれるが、実際、彼の栄華は約1週間である。なんと予想もできないことが起きたのだった。完全に天下を手中に納める前に中国地方から後の豊臣秀吉(当時の姓は羽柴)が戻って来たのである。秀吉には『反逆者の討伐』という大儀があり、山崎の戦いで光秀は秀吉に敗北。生き延びたという説も存在はするが、山崎の戦い後、落ち武者となり、落ち武者狩りを行っていた名もなき百姓に討ち取られた。この時、発見された光秀は顔が判別できないほど、ずたずたにされていたという。鎧と腰の刀だけで光秀だと判断され、現代に伝わっている。天下人に必要な教養と人脈を持ちながら、最後は大罪人の汚名を着せられることとなり、その後、後世に伝わったのである。
ことしの大河、「真田丸」での関ヶ原がまだ記憶に新しい。ここで最後の『歴史に汚名を残した男』が登場する。豊臣家の乗っ取りを企て、それを理由に討伐された男、元豊臣家の五奉行の筆頭ともいわれた石田三成である。秀吉亡き後の豊臣家を自分の意のままに操ろうとした『罪』で家康に討伐され、最後は斬首となっている。だがこの男は秀吉亡き後、瓦解し始めていた豊臣家を必死に建て直し、秀吉の後継者である秀頼のために豊臣家を磐石なものにしようと一生懸命に『頑張った』忠臣である。
石田三成、幼名・佐吉は近江の国、石田村という村の土豪の家の次男として生まれる。気遣いができ、頭もよく切れるいわゆる『神童』だったようである。三成の人生を大きく変えた秀吉との出会いに、こんな逸話がある。近江・長浜を所領としていた秀吉が鷹狩りの途中で喉が渇き、近江国伊吹山の観音寺(三珠院という説も)に立ち寄り、茶を所望した。その時、寺小姓だった佐吉が茶を運んで来たのだった。まずは大きめの茶碗にぬるめのお茶を出し、次に一杯目より小さい茶碗にやや熱めのお茶、最後に小振りの茶碗に熱いお茶を淹れて出した。まずぬるめのお茶で喉を潤わせ、後の熱いお茶で十分お茶を味わわせるという細かい心配りに秀吉は感心し、佐吉を自分の小姓にしたのだ。これが後の世でいう「三杯のお茶(三献茶)」という。
秀吉に仕え出した佐吉はその後、様々な場面で活躍する。秀吉が中国攻めを命じられ、毛利の要の城の一つである鳥取城攻めの時、秀吉は今までの城攻めの概念を覆すような作戦を用いた。播磨・三木城攻めでも見せた兵糧攻めである。城の周囲で米を高値で買い占め、農民たちを鳥取城の中に追いやる。だがこの時、鳥取城にはどれほどの蓄えがあるかはわからなかった。毎日、米を炊くことで上がる煙、その長さや回数などから敵の兵糧の残りを計算したのが三成だといわれている。実際に鳥取城の兵糧は20日分しかなく、秀吉は兵を一人も失うことなく、鳥取城を落とすことができた。
秀吉が天下を取った後も三成は奉行として『太閤検地』と後世で呼ばれることになる制度を考案。これは各地によって米の量り方が違っていたのを統一させ、年貢を調整させた。秀吉亡き後は、天下の乗っ取りに動き出す徳川家康に対し、様々な方法でそれを防ごうとする。だが結果として、三成が独断で様々な決定をした形となり、他の豊臣家家臣たちから反感を買ってしまった。そして反逆人、家康討伐に乗り出し、関ヶ原に出陣した三成だったが、味方のほとんどが動かず、小早川秀秋という離反者まで出し、敗北。その後、捕らえられた三成は六条河原で『天下を乱した大罪人』として斬首となった。豊臣に忠義を尽くした男は、それを我が物にしようとしたと誤解され、最後には謀反人のような扱いで斬首となった。斬首の時、三成は冷静だったという。家康が情けとして処刑される三成たちに小袖を贈った。渡す者が「江戸の上様からだ」と言ったら、三成は「上様は秀頼公より他にいない。いつから家康が上様となったのだ」と言い、受け取らず、最期に「このように戦に敗れることは古今よくあることであり、恥とは思わない」と言い、家康はこれに対し、「三成はさすが大将の道を知るものだ」と言ったという記録もある。
「歴史は勝者によって書かれる」。「勝てば官軍」。桶狭間で織田に敗れ、お気楽貴族のイメージをつけられた今川義元。信長の人生を物語る最も信憑性が高いとされる「信長記」。著者は大田牛一(おおたぎゅういち)といい、信長の官僚であった。信長のことを後世に記録するために書かれたものであるが、自身が信長に仕えていたため、敵であった今川義元があのようなイメージになるよう書かれたという可能性がある。明智光秀は秀吉の天下取りの正当性を説くため、謀反を起こした大罪人であり、それを秀吉が討ったという勧善懲悪のイメージを残す必要があったため、そのように仕立てられた可能性がある。そして最後の石田三成もまた家康の天下取りを裏付けるため、豊臣家の乗っ取りを企てた謀反人としてのイメージを天下に知らしめる必要があったと考えられる。勝者の都合で悪いイメージをつけられたまま、後世に伝えられた悲しき者たち。そんな者たちのイメージを少しでも払拭したい。このような者たちは歴史に勝者がいる数だけ存在する。そんな彼らを見つめ直すのも、歴史の一つの楽しみ方ではないだろうか。
榊原理人(さかきばら りひと)プロフィール
大学時代、人文科学部にて「太平洋・アジア文化学科」を専攻。
現在、ノースバンクーバー在住。