2016年6月30日 第27号

 

 

 戦国というと、どうしても男子が好きそうなイメージが強そうだが、数年前から若い女性の間で戦国時代が人気になっている。その中でも最も人気を集めている武将の一人が真田幸村(さなだゆきむら)である。正式名は真田信繁(さなだのぶしげ)というのだが、いつからか幸村の名前のほうが有名である。現在NHKの大河ドラマ「真田丸」の影響もあり、今最も注目されているといってもいい真田信繁であるが、天下統一目前、最後の大仕上げをしようとしている徳川家康の最大の障害となり、家康に「日本一の兵」、「真田不思議なる弓取り(武将)なり」とまで称させた人物である。大阪の陣ではドラマのタイトルともなっている「真田丸」という要塞を築き、何万という大軍の徳川軍を食い止める智将としての一面がある。かといえば、たった3千の兵で1万3千の軍を突破し、家康の本陣を急襲し、馬印を倒す猛将の一面もある。ちなみに家康が馬印を倒されるほど敵の接近を許したのは生涯で二回のみである。1回目は「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に惨敗した時であり、2回目が大阪夏の陣で幸村に本陣深くまで攻め込まれた時である。(奇しくも真田家のルーツは信濃にあり、武田家の家臣から始まっている)。この智勇ともに兼ね備えた真田幸村だが、実は彼の智勇は彼一人だけのものではなく、真田家という家系に代々受け継がれるものである。真田家が「真田」と名乗るようになってから3代、智と勇でどう戦国を生き抜いてきたのだろうか。

 

 まず初めに「真田」を名乗ったのは真田家初代当主・真田幸隆(さなだゆきたか)である。幸村から数えて2代、つまり祖父に当る。幸村の『智』のルーツは間違いなく、この祖父からきている。元々信濃の名家、滋野一族の出身で姓は初めは海野といった。真田を名乗り始めたのは武田家を信玄が継いだ時である。(これは現在の上田市に当る地名、実田からきている説が有力である)。武田信玄に仕えてから幸隆はその知略を以って、様々な場で活躍をする。信玄が生涯で最も苦戦した相手・村上義清を信濃から追い落とすなど、知恵で数々の功績を立てる。それが信玄に認められ、滋野一族を束ね、真田家は戦国デビューを果たす。信玄の上州攻略の最前線を任せられ、これを果たし、幸隆はあっと言う間に武田家の中でその地位を高める。

 

 真田家の2代目を継ぎ、幸隆の知略を最も受け継いだのが三男の昌幸である。『真田丸』では草刈正雄が演じ、『戦国の狸親父』と一部では称されている昌幸がみごとに表現されている。武田滅亡後、道連れになりかけた真田家をなんとか江戸時代まで生きながらえさせ、真田家を地方豪族から大名にまで成長させた。真田を武田の滅亡と共に織田に付かせ、織田信長の死を以って上杉家につかせ、上杉から豊臣、そして最終的には徳川につかせて、江戸時代には松代藩として生き延びる。幼少の頃、幸隆が武田家に仕えるに当って、人質を差し出すこととなった時、三男である昌幸が武田家の人質として、武田家に送られる。この時代の人質には二つの意味がある。一つは裏切りを防止するためであり、もう一つはその家の仕来りや流儀を子に学ばせる見習いのためでもあった。現に昌幸は武田家の人質だった間に武田軍法を学んでいる。幸隆同様、昌幸はすぐにその才能を認められ、かの有名な上杉謙信との激戦の場、川中島へ信玄の近習として同行している。父・幸隆から受け継いだ軍略の才と武田家軍法を身に付けた昌幸を信玄は後にこう称している。「昌幸は我が両目の如し」と。そして武田家の家臣たちからは「小信玄」と評され、その才能の高さは誰もが認めるものであった。天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦では長男の信幸(信之)を東軍に付かせ、自らと次男の信繁(幸村)は西軍に付き、家を二つに分ける。これは西軍と東軍、どちらが勝っても真田家が続くための苦肉の策であった。これにより徳川が関ヶ原で勝利した後の江戸時代にも真田家は松代藩として生き延びることができる。

 

 そして3代目となる信繁は2代目昌幸の次男である。正式に家督を継ぎ、江戸時代まで真田家を引っ張っていったのは長男の信幸であるが、いわゆる『真田三代』の3代目は真田信繁となっている。そもそも信繁が何故『幸村』と知られるようになったのか? 実は真田幸村は生涯で一度も幸村と名乗っておらず、どの書にも幸村という名の記述はない。この幸村という名は信繁の没後約60年の寛文12年(1672年)に書かれた書に初めて登場する。この名の由来は真田家のルーツともいえる海野家の通字「幸」の字はわかるが、「村」という字はどこからきたのだろうか? こんな面白い話がある。現在では誤伝とされているが、徳川家にとって呪いといえる刀がある。村正作の刀である。徳川家と、この村正の因縁は家康の祖父・清康が家臣の謀反によって殺された時から始まる。清康を切った刀が村正だといわれており、家康の長男・信康が織田信長の命で切腹した時に使われた小刀が村正だともいわれている。家康自身も幼少の頃、刀で怪我をした時も村正作の刀だったといわれており、関ヶ原で槍を取り落とし、指を切った時も村正作の槍だったという。現在では家康の形見として村正作の刀が代々受け継がれていることから、家康は村正を嫌うどころか大事にしていたことがわかり、徳川家と村正の呪いの伝承は後世の創作と考えられている。だが、江戸時代までは家康と村正の呪いが通説であり、大阪夏の陣で家康を窮地にまで追い詰めた信繁に、「幸」の字に、村正の「村」を合わせた幸村が知れ渡ったという話がある。

 真田信繁も父・昌幸が武田家に人質として出されたように、上杉家へ人質に取られる。この上杉家での生活が、まだ青年だった信繁に大きな影響を与えたと考えられる。上杉には軍神と称された上杉謙信の軍法と義を重んじる家風があったため、昌幸は息子にこれらを学べせるために送ったのではないだろうか。何しろ、上杉家には数年前に大河ドラマの題材としても取り上げられた直江兼続(なおえかねつぐ)がいたのである。上杉家での生活は信繁にとっては兵法を学ぶのには最高の環境だったといえる。兼続に学び、幸隆直伝の真田兵法に父・昌幸の加えた武田軍法、そして新たに上杉軍法まで加わった。信繁率いる真田軍は何度も徳川の大軍に勝利している。これらの戦い方は、この頃まだ珍しかったゲリラ戦であった。このゲリラ戦術も祖父・幸隆から伝わる兵法から進化したものだったのだろう。

 

 信繁の智は祖父と父親譲りとすれば、彼の武勇は伯父たち譲りだといえよう。残念ながら、この二人の伯父は『真田丸』に登場しない。幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は 『戦国最強』と呼ばれた武田の騎馬隊に所属しており、かの長篠の合戦で共に戦死している。先程でも触れたが、三方ヶ原で家康を最も震えさせたのが、この武田騎馬隊である。赤い具足で通称『赤備え』と呼ばれ、敵は、その赤い軍団を見ただけで逃げ出すほどだった。(現にこの『赤備え』は家康の記憶に残り、後に武田家が滅亡すると、武田の亡臣たちを受け入れ、自身で徳川軍に『赤備え』を編成している)。真田信繁も大阪夏の陣で、豊臣の敗北がほぼ決定的になった時、信繁は残党をまとめあげ、徳川本陣への突撃を決行した。大事な戦では赤い鎧を着るのが武田家の頃からの慣わしのようで、真田決死隊は全員赤い鎧を纏っていた。この突撃の姿は家康に三方ヶ原の恐怖を彷彿とさせたことであろう。天下統一の大仕上げである大阪夏の陣で、あの若き日のトラウマを呼び起こさせられ、さぞかし恐怖したであろう。『赤備え』の真田決死隊が本陣に突撃して来た時、家康は自刃しようとしたという話が残っているほどである。結果的にこの突撃は失敗に終わり、信繁は戦死するのだが、その勇士を称え、家康は真田信繁を『日本一の兵』と称する。最大の宿敵である家康も、評価する智と武勇を極めた真田信繁は、いわば真田が3代にわたって作り上げた最高傑作ともいえる。通常であれば敗北した敵のことは後世に悪く書き記されるものだが、今でもその智勇が伝えられ、『真田十勇士』を初めとする数々の創作物の対象となっているのは、敵ながらその勇姿と生き様などを評価した家康の粋な計らいがあったのではないだろうか。

 

榊原理人(さかきばら りひと)プロフィール
大学時代、人文科学部にて「太平洋・アジア文化学科」を専攻。
現在、ノースバンクーバー在住。

 

 

 

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