2016年6月9日 第24号
Pioneer と言う言葉はもともとフランス語で足を指す「peon」と歩兵を意味する「eer」が合わせられて作られた「peonier」と言う言葉が語源になっている。恐らく、死を恐れず、戦場で真っ先に敵に向かって突撃して行く兵のイメージを先駆者と重ねたのであろう。
日本にも命を顧みず、日本の近代化のために奔走した先駆者がいた。彼は江戸時代末期の天保6年(新暦1836年)、土佐藩で生まれた。当時最も身分制度の厳しかったこの藩で生まれたこの男、姓は坂本、名を直柔(なおなり)と言う。この男は名よりも通称である龍馬の方が有名であろう。龍馬と言う名は彼が生まれる前夜、母親が龍を夢で見て、生まれた子には馬の鬣(たてがみ)のような産毛が背中に生えていたから龍馬と名付けられたという逸話が残っている。この坂本龍馬、歴史の教科書にも載っており、日本でこの男を知らずに育つことは不可能と言えるほど有名である。理由を大きくまとめると、この坂本龍馬、様々な事を『先駆け』、日本が近代化する基盤を『開拓』したからである。
まず一つ目の『先駆け』は『考え』。龍馬の生まれた土佐藩は上士(じょうし)と郷士(ごうし)と武士の中で身分が分かれていた藩である。一説では秀吉によって派遣された山内氏とその郎党が上士となり、その座を奪われた長曾我部氏とその郎党らが郷士となったという。坂本家は郷士であり、武家でありながらも、それだけでは食べて行けず、商売もやっていた。この身分制度は当時の土佐では絶対的なものであり、郷士が上士に逆らうことは考えられないことであった。武士は藩のために尽くし、郷士は上士のために尽くすというのが世の常だった頃、龍馬だけは違う目を持っていた。龍馬の考えは『上士』も『郷士』もなく、皆同じ『人間』であり、『藩』と言う無数の国ではなく、日ノ本という一つの大きな国と言う考えだった。もちろん、最初からこの考えを持っていたわけではなく、龍馬がその人生で出会った人々の影響が大きい。例えば、佐久間象山や勝海舟である。この者たちもそれぞれ近代的な考え方を持った者たちで、その意味でも先駆者とも呼べる。だがこの者たちに影響され、土佐と言う藩の中では留まらない視野を持ってしまった龍馬は大胆な行動に出るのだった。『脱藩』したのである。当時、『脱藩』とは殿様を裏切る行為であり、重罪である。追手も差し向けられ、捕まれば死罪は免れない。そんな重い罪でも龍馬を土佐に縛り付けることはできなかったのだ。龍馬は土佐を脱藩した後、一度許されることにはなるが、再び脱藩している。藩という小さな枠に収まりきる男ではなかったのだ。殿様を裏切るという行為は誇り高き武士にとっては本来恥ずべき行為ではあるが、龍馬はこんな言葉を遺している。「恥といふことを打ち捨てて、世の事は成るべし」と。
二つ目の『先駆け』は『会社』という組織を初めて日本で作ったのである。脱藩した後、幕府の軍艦奉行並であった勝海舟(この時は勝麟太郎と名乗る)に弟子入り、勝の設立した神戸海軍操練所に加入する。この時、龍馬はそれぞれの藩を抜けた脱藩者たちと出会う。この中には後に明治政府の一員として廃藩置県や地租改正などを行った陸奥宗光もいた。『藩同士』というものの見方だったこの時代に『日本』と『外国』という新たな視点を得た龍馬は仲間たちと共に長崎で商売を始める。これは当時まだ日本になかったもので、つまり日本初めての会社となる。この会社、後に海援隊と呼ばれることになるが、設立当時は亀山社中と言った。私設海軍や貿易、薩摩藩からの資金援助で成り立っていたこの組織は近代的な株式会社ととても似たシステムを持っていた。そしてもう一つ注目すべき点はこの亀山社中の社員たちの出身は土佐、越前、越後、讃岐、紀伊、下関、長崎などバラバラであった。社員のほとんどが言わば脱藩者である。この者たちは藩という枠に捉われず、日ノ本という一つの国を背景にし、世界へ目を向けていた。後に新政府の一員になるように誘われた龍馬はこれを断っている。では、新しい時代で何をするのかと問われた龍馬はこう答えたと記録がある。「そうさな、世界の海援隊でもやりますかな」
三つめは意外なことに、『新婚旅行』である。この頃すでに、海外では新婚旅行は普通に行われていたが、日本では龍馬とお龍が新婚旅行第一号だと言われている。そもそも当時、女性が持つ自由は限られており、全国を旅することなど許されてはいなかった。これは自由に全国を歩き回る坂本龍馬の妻であったがこそ可能だったとも言える。龍馬が京都の伏見で負傷し、西郷隆盛に薩摩での療養を勧められた時、お龍と共に薩摩へ行ったことがきっかけとなる。薩摩の小松帯刀の別邸に宿泊しながらも、龍馬は妻のお龍を連れ、桜島、霧島などを訪れている。更には日本の神話にも登場する高千穂にも登っており、スケッチまでしている。薩摩の名所な どを巡り、この頃からすでに有名であった塩しおびたし浸温泉や霧島温泉などに浸かり、療養を取った。思えば龍馬の激動の人生の中で、愛する妻と共に穏やかに暮らした1か月間であっ たかもしれない。この時、龍馬はこの療養期間が自分の人生において数少ない安らげる時間だと感じていたからこそ、お龍を連れて行ったのかもしれない。新婚旅行第一号になろうという考えはなく、ただ妻を連れて行きたかった。龍馬の頭にはそれだけがあったのかもしれない。だがそれは風習や常識に捉われず、ただ己のやりたいことを貫く龍馬精神があったからこそ、実現したことである。このことを思わせるような言葉を龍馬は遺している。「なんでも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころのように、骨となって一生を終えるのだから」
常識、風習、掟。これは龍馬にはなんの意味も持たない言葉だったと言える。土佐には生まれた頃から広い太平洋が目の前にあった。今でも高知県の桂浜からこの無限大にも思える海が見える。龍馬は生まれて最初に見たのは人や国ではなく、海とその先に繋がっている世界だった。それゆえ、鎖国している島国の常識に捉われず、やること成すことが悉ことごとく型破りだったのかもしれない。彼は生まれながらの先駆者であり、開拓者だったのだ。龍馬の残した名言の中にはこんな言葉がある。それは彼の死後約200年が経とうとしている今の若者たち にも向けられる言葉である。「人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ」これは壮大な夢よりも、経済的効率を優先しがちな我々現代人にこそ、心に留めておかなければならない言葉なのかもしれない。
榊原理人(さかきばら りひと)プロフィール
大学時代、人文科学部にて「太平洋・アジア文化学科」を専攻。
現在、ノースバンクーバー在住。