2016年12月22日 第52号

 

 

イラスト共に片桐 貞夫

 

 下女たちに声をかけても答えがない。なにを訊いてもニヤリと笑うだけでなにも言わない。そのくせリュウの背中を見続ける。はっきりと意識したのは風呂に入った時であった。湯気を逃がす為の格子壁に視線を感じたのだ。風呂から出たリュウは、身体の隅々までが観られたことを感じたのだった。

 なにかある…

 リュウは、むしろほっとした気になっていた。上田の村では手がかりになるものがどこにもなく、心配になっていたのだった。  

 階下で朝の音がする。たきぎのはねる音がする。

 リュウが起きあがった。障子を開け雨戸をずらして外を見た。朝はまだ明け切っておらず、霧のような雨が舞っている。すぐそばに染谷の山が迫っているはずだが、低くたれ込める雲に隠れてなにも見えない。

 サキとサキの兄栄助の顔が交互に現れてはリュウの目の前で重なった。栄助の隻眼には涙が溢れていた。

 あさっての朝、栄助は鎌倉小袋谷に送られる。女殺しの罪で首をはねられるのだ。

「… …」

 と、その時なにかが動いた。外を見るリュウの網膜の片隅で予期せぬなにかが動いたのだ。人間であった。遠い朝靄の薄暮に、一つの人影が林の中から出てきたのだった。

 リュウは音もたてずに廊下に出、階段を下りて表に出た。おぼろげな視野をかすめた者は誰なのか。なんでこんなに朝早く、林の中から出てきたのか。

 リュウは裏戸の見えるところまで来ると走るのをやめ、身体を横に向けて朝の散策を装った。

 人影が裏門の方に近づいてきた。

 源六であった。

 源六は、くぐり戸を抜けて身を起こすとリュウの姿に気がついた。

「おはやいですね」

「はぁ?」

 リュウは驚いたふりをした。

「あら、番頭さん」

「もうお目覚めですか」

「ええ」

「傘があったでしょうに」

「かさ? …ありがとうございます。でも、もうほとんど降っていませんわ」

 雨は霧のように変わっている。

「きょうは陽が出るかも知れませんよ」

 源六が空を見上げて言った。

「番頭さん、お早いのね。もうなにかお仕事?」

「ええ、ちょっと」

 リュウは、源六の口から今朝の行動のことを引き出そうとするのであるがそれ以上言わない。話題を変えるしかなかった。

「わたし考えたんですけど、もう一晩泊まらせていただこうと思ってますの。川の水は、まだ退いてないようだし、少し心配になってきましたのよ」

 リュウは、ここにもっと滞在する必要を感じていた。

「ええ、どうぞどうぞ。きょうは主人も帰りますし」

「遠くから帰ってこられますの?」

「きょうは駕籠を迎えにやります。どうしても帰ってきてもらわねばなりませんので」

 源六はリュウの問いには答えないで言った。

「なにか大事なことでもあるんですか」

「ええ、あるんですよ。ほれご存じでしょう、女を喰ったというくまおとこ。あれが、明後日おしおきになるんです」

「あさって?」

 リュウがとぼけた。

「ええ。それで、そのおしおきの御公中がここを通って小袋谷に行きます。その時、お番詰めの方々がこちらで一服されることになっているんですよ」

「くまおとこがここを通るんですか」

「はい。ですから主人には、どうしても在宅していてもらわなければならないんです」

「そうですか。くまおとこがここを?でも、見たいけど、恐いわね」

 リュウは両手を合わせて怖そうなそぶりをした。

「そんなことないですよ、唐丸に手枷足枷ですから。遠くから、人も沢山、見に来ますよ」

 その時、裏戸が開いて飯炊き女が顔を出した。源六になにやら言った。

 源六はうなずいてからリュウに言った。

「朝ごはんができたそうです。どうぞ」

 と、仏間のほうにリュウを導いていった。

 リュウが朝餉に向かっても、源六はすぐ脇に坐って相手をした。

 リュウが言った。

「今日のことなんですけど、わたし、一日中ここにいてもしょうがないから戸塚まで行って来ようと思ってますの。二、三、用を済ませて来ようと思ってますのよ」

「そうですか。ここにはなにもないですからね。道が悪いので気をつけて行ってきて下さい」

 源六はリュウになんの不審も抱いていない。

「荷物は預かっといていただきますわ」

「ええわかりました。今晩は、生きのいい魚も届きますので楽しみに帰ってきて下さい」

(続く)

 

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