2017年6月15日 第24号
イラスト共に片桐 貞夫
「ほんとに?」
蘭子は数日前のピックリングビーチでのデモ活動を思い出すと、かつて、読売新聞で見た小さな記事を思い出した。
カナダはモントリオール市で医師が射殺された。その医師がただの医師でなく、妊娠中絶の専門医だったことを蘭子は思い出すのだった。
「ほんとうにクリニックは問題ないの?」
「クリニックにはガードマンやエスコートの人が何人もいて安全なのよ」
「ガードマン?」
ガードマンがいる。エスコートやらの人がいる。この二種類の人がどういうことをするか知らないが、クリニックを警備していることだけは蘭子にも判る。ということはそうした警備員が必要なのか。輝昭のクリニックは、そうしたプロのガードマンを必要とするほど危険なところなのか。
七、
翌日、蘭子は輝昭のクリニックに行った。前日の晩、蘭子は輝昭にその危険性をくどいほど訊いたが、輝昭は笑って心配の不必要性を繰り返した。ガードマンの存在にしても、必要はないが政府が勝手によこすのでいるだけである、というようなことを説いたのである。しかし蘭子は、この国における中絶問題の深刻性を感じはじめたのであった。
クリニックの住所はトロントの北西、グリーンウッドという地区で、ダンフォース通りの8000番地から北に入ったところという。
しかし、該当地にはやってきたがそれらしき建物がない。
蘭子は人に訊いた。乳母車に赤ん坊を乗せた若い母親が木陰のベンチで休んでいたのだ。
「失礼ですが、このへんに女性用のクリニックがあるって聞いてきたんですが…」
「…」
女が顔を上げた。あるともないとも言わない。
「なにかそこに御用ですか」
別の声がうしろから来た。
「ええ、ちょっと」
蘭子が振り返ると、四十五、六の女が手に旗のようなものを下げて立っている。
「娘さんのことですか」
「は?」
「誰が中絶をしたいんですか」
「ちゅうぜつ?」
と、繰り返してから蘭子はすぐに女の意味していることを知った。女は、プロライフ、つまり中絶反対を唱えるグループのものに違いない。クリニックの付近に待機し、中絶するために来訪する女たちに、その意図を翻させるためのデモストレラーの一人に違いなかった。
「娘さんが妊娠したのね」
別の声が左手から来た。
「娘さんが妊娠したんで中絶の下調べに来たんですね」
「いえ」
「わかっています。よくあるケースです。でもね、中絶って大変なことなんですよ。一人の生きている人間を抹殺することなんですから」
「……」
「予期せぬ妊娠なんでしょうが娘さんによく言って聞かせてください。堕胎をしてはいけません。かならず後悔します。赤ちゃんが成長し出せばすぐに分かりますが、産むということは大変な喜びなんです」
この女も中絶に来る妊婦を説得するためにいる。赤ん坊を乳母車に乗せた女もそうに違いなかった。
「いえ、わたしは…」
蘭子も輝昭の影響を受けて中絶クリニックの必要性を理解している。堕胎施設がないためどれほど多くの女が危険を冒して様々な堕胎を試み、どれほど多くの女が命を落としてきたかを蘭子は知っていた。プロライフの者は堕胎を殺人というが、それは人の態をしていない液状のものでしかなく、胎児と呼ぶにはほど遠いものであったのだ。
「わかってますよ、結婚もしていないのに娘さんに赤ちゃんができちゃったんでしょう?」
女の一人が奪い取るように言った。
「よくあることです。でも赤ちゃんには生まれる権利があります。われわれに生きる権利があるように、一度、お母さんの胎内に宿った生命はもう一人の人間なんです。どんな理由があれ堕胎は殺人です。一つの生命をこちらの勝手な理由で抹殺してしまうんですからね」
「見てください…」
乳母車の女が立ち上がって赤ん坊を抱き上げた。
(続く)