2017年5月25日 第21号
イラスト共に片桐 貞夫
エーデルマンは蘭子と同じくらいの背丈の老人で、顔が三日月のようにしゃくれている。にっこりと微笑むやさしげな目じりのしわに、この人のどこにあの不屈な精神が宿っているのかと蘭子は思った。
全員がローンチェアー(野外いす)におさまった。
「どうですかトロントでのホリデーは、ミセスたていし」
「らんこですよ。蘭子って呼んでください」
「ランコ。ランコですか。じゃ、ランコって呼ばせていただきます。ランコはこの公園はじめてですか」
「いえ、はじめてではありません」
「去年もここで一緒にバーベキューしたんだ」
チャッドが言った。
「そうか。そうですか。にもかかわらずお会いするのが今日になってしまって残念です。なんだかんだと雑用に追われて…」
「とんでもございません。ドクターがお忙しいのは輝昭からよく聞いております」
「大変なんだよドクターは」
輝昭が言った。
「ついこの間まではカナダ中を飛び回っていたんだけど、今では世界中を飛び回っているんだ」
「世界中って…お仕事のことで?」
「むろんそうなんだ。母さんに言ったろう、ドクターは妊娠中絶を合法化した人なんだ。世界中の人から注目されているんだよ」
「うかがっております」
蘭子がエーデルマンにむかってうなずいた。輝昭から何度も聞かされていたことであった。
「ところで君たちは元気か」
リリアンやクリスティーンに会うのも久しぶりなんだろう、エーデルマンは忙しく四人と言葉を交わすとニコニコとうなずいた。
「そうか、みんな無事にやっているか。とにかく平穏無事がなによりだ。平和に暮らすことがなによりだ」
あ…
蘭子が口の中で声を上げた。場違いなものが目に入ったのだ。
刺青である。角度が逆で気がつかなかったがエーデルマンの左腕に刺青がある。かなり古いものなのであろうぼやけているが、六桁ほどの数字が彫ってあるのだ。蘭子は腹の中で首をかしげながらこの老人の素性を思った。実子のチャッドがユダヤ系ということは、エーデルマンもユダヤ系に決まっている。刺青の概念が日本とは違うのでどうとっていいか分からないが、「ドクター」ともあろう者が刺青をするだろうか。そしてその数字たるやなんであろう。
ハンバーグの焼ける音や子供たちの叫喚に妙な声が混じった。
『堕胎は殺人だ! 胎児も人間だ』
リリアンとクリスティーンが声のほうに顔を向けた。
「来たな」
エーデルマンがつぶやいた。
「いや、前から来てたんですよ」
輝昭もそのままの姿勢で言った。
『堕胎はすぐやめろ。殺人はすぐ止めるべきだ!』
十人以上に膨れ上がったデモ隊が近づいている。それぞれプラカードを高くかかげ、声を合わせて叫んでいる。蘭子はエーデルマンとの出会いに気を取られデモ隊のことはすっかり忘れていたのだった。
「アイアムソーリー」
エーデルマンが申し訳なさそうに蘭子に言った。
「来るんではなかった」
「違うんですよ」 輝昭が言った。
「連中は以前から来ていたんです。ドクターが来たから来たんではないんですよ」
「そうかな」と言ってエーデルマンは蘭子のほうを見た。
「わたしはもう慣れてしまいましたが、私の行くところには、ああした連中が必ず現れるんですよ」
「そうですか」
蘭子はそれ以上言えず首だけ振ってエーデルマンに同情を示した。
『アボーション、イズ、マーダー』
デモ隊が目の前に来た。
『胎児だって生きる権利があるんだ!堕胎は殺人だ』
声を合わせて叫んでいる。プラカードには胎児の絵やドクロの絵が描かれている。
『アボーション、イズ、マーダー! 殺人はすぐに止めるべきだ!』
デモ隊は蘭子たちにつかみかからんばかりに近づいては波が引くように遠のいていく。海水浴客のほとんどが立ち上がって蘭子たちの方を見ているようであった。
「オーケー、わかった!」
チャッドが立ち上がった。近づいてきたデモ隊のリーダーらしき女に歩み寄った。
(続く)