2017年6月29日 第26号
イラスト共に片桐 貞夫
クリニックの建物はブロック造りで窓がない。通りに面した窓という窓はコンクリートブロックでふさがれていて、予想していた建物とはまったく違うものであった。輝昭はあの中で働いている。陽も差し込まない刑務所のような建物の中で、朝から晩までクライアントの要望にこたえている。
歩く蘭子の耳にジョージエットの声が聞こえてきた。
「あたしドクターになるの。ドクターになって女の人を助けるの」
人から「殺人者」とののしられ、輝昭はガードマンに身の安全を託して自ら信じる業務に徹している。あふれ出る涙をぬぐいながら蘭子は、なにが輝昭をしてこの危険な仕事に没頭させるのかと思うのであった。
太古の昔から、為政者にとって人民の離散、人口減少は最大の関心ごとであった。領民、つまり納税者は一人でも多いほうが国は潤ったのだ。権力者は人口増加を図るために万全を尽くした。厳しい圧制をするもう一方の手で多産を奨励し、人民に死後の「天国」を約束したのだ。宗教を利用し、自殺、堕胎を極罪にして人口の増加を図ったのであった。
八、
クリニックからの帰路、蘭子がバスを降り、樹木の日蔭を縫うように歩いている。ヘザー通りの角を曲がって車のあふれるオーク通りに入ると、すぐに隣家の前に出る。汗をぬぐって歩いていると、玄関の戸が開き二人の男が出てきた。背広姿の二人は戸口まで出てきた妻女のステイシーに挨拶すると、前に停めてあった黒の大型車に乗って去っていった。
車を見送ってから蘭子が歩み寄った。ステイシーの様子がいつもと違う。
「お客さまね」
「ちがうのよ」
ステイシーが鼻にかかった声で言った。目と鼻が赤い。泣いていたことは瞭然であった。
「どうかしたの」
「ウ…」
「ステイシー、どうしたのよ」
蘭子が近づくとステイシーはたまりかねたように鳴咽を漏らし、目にハンカチを当てて声を出して泣いた。中をのぞくと、夫のジャックも頭を垂れて坐っている。蘭子は外に立ち尽くしていることができず、中に入っていった。
このあたり一帯はミルナーウッドと呼ばれ、どの家も九十年は経っている。ブルーカラーの若い年層を対象に建てられたのだろう間取りが狭く、玄関を入るともうそれがリビングであった。
ジャックも、垂れた頭を揺らして子供のように泣いている。蘭子がハローと言うと顔も上げずに泣き声だけが高まった。
「誰だったの今の人たち?」
蘭子がテレビの横の椅子に坐ってふたたびステイシーに訊いた。
「ケイサツ…ウウウ…」
「けいさつ?」
「そう…」
「けいさつ…警察がどうして」
「ウウウウ……」
蘭子と目を合わせたステイシーが、ふたたび声を上げて泣いた。
「……」
蘭子はなにも言わずにステイシーの嗚咽が弱まるのを待った。
「ど、どーたーのことで」
「え」
「ドーターのことで」
「ドーターのこと? どういうこと」
ドーターとは「娘」のことである。
「娘って…だれの」
ステイシーとジャックには子供がいない。だから輝昭が淋しいだろうと同情して孤独な二人の面倒をみているものと蘭子は思っていた。
「ね、誰の娘さんのこと?」
「だれって、……わたしたちのよ」
「あなたたちの?」
「そう。私たちの」
「あなたたちの娘?……娘さん…いたの?」
蘭子が信じられぬという面持ちで訊きかえした。
「その子よ」
ステイシーがテレビの上の写真を指さした。
高校卒業の時の写真であろう、十七、八の金髪の娘が卒業帽をかぶって笑っている。ステイシーの若いころを思わせる口元のかわいい娘であった。
蘭子が写真をつかんで手元で見た。
「これ、…お二人の…娘さん?」
「ジ、ジェジェニファーファー…ウウウ…ジジェニファファー……ウウウ」
それまで黙っていたジャックが声を上げた。ジャックは八年ほど前に脳梗塞をわずらい、左手足が不自由で舌も自由にまわらなくなっていた。
「ジェニファーっていうのよ」
「ジェニファー」
(続く)