2017年7月27日 第30号
イラスト共に片桐 貞夫
「電話番号をおしえて、クリスティーン!」
「電話番号って、クリニックの?」
「もちろんよ」
「できないわ。クリニックに電話することなんてできないわ」
昂然と受話器をつかんだ蘭子ではあったがクリスティーンの言ったことがわかった。クリニックへの私用電話は禁じられていることを思い出したのだった。
この数日は蘭子にとって衝撃の日々であった。
来訪十五回にしてカナダにおける妊娠中絶の実情がわかり、隣家にひとり娘がいて、二十年まえにバンクーバーで殺害されていることが判った。
蘭子にとり、世界広しといえども輝昭以上に親しい人間はいなかった。それは、蘭子の母親や夫が健在中の時も同じで、輝昭とだけにしか通じない会話というのがよくあった。だから将来、輝昭が結婚し、家庭を築いても、蘭子は輝昭同様その妻を愛し、輝昭との密接な関係を保持しなければと、何度も自らを戒めたものであった。ところがカナダに住み始めてからの輝昭は、なぜか遠く蘭子の手の届かない彼方に行ってしまったようであった。
輝昭が子供のできない手術を受けていた。なぜだろう。自ら携わる中絶手術と関係があるのだろうか。また、バンクーバーで殺されたという女の実家の隣に住み、親密にその老親の面倒をみている。どういうことなんだろう。女の死に関係あるのだろうか。
十、
その晩、輝昭はいつものように六時半に帰ってきた。晩といっても北国の夏の太陽はまだまだ沈まない。蘭子は待ちきれない思いでいきり立っていたが、輝昭の帰宅時間が近づくにつれてその考えを改めた。「パイプカット」のことにしてもいきなり問い詰め得る安易な事柄ではないと思ったのだ。日本帰国までまだ数日ある。蘭子は自らに考える時間を与えたのだった。
「母さんただいま」
帰宅するや輝昭は、坐りもしないで自分の部屋に行った。そしていつものよれよれの服に着替えて出てきた。
「芝刈りだ。母さんも外においでよ」
「あんた少し休みなさいよ。疲れてるんじゃない」
疲れていないわけがない。
「いやいや疲れてなんかない。それどころか、あんなクリニックの中に閉じ込められているから運動が必要なんだ。芝刈りはちょうどいい運動なんだよ」
「ほんとに?」
にっこりと言う輝昭を見て、蘭子が、哀れむかのように言った。輝昭の疲れぐあいが蘭子に分かるのだ。
輝昭は、裏の小屋の鍵を開け、芝刈り機を出すと、ガソリンを入れてエンジンスタートの紐を引っ張った。エンジンはうんともすんとも言わなかったが、五回目ごろからブスッブスッといい出して甲高い音を撒き散らし出した。中古の芝刈り機が本調子でないことは蘭子にも判る。いつの間にか帰って来たルパートとポールが蘭子に「ハーイ」の手を振った。
ステイシーとジャックの家と輝昭家の間に仕切るものはなにもない。
輝昭は芝刈り機の音をさらに高めると、両家の芝生をひとまとめにして刈りだした。
しかしステイシーとジャックが出てこない。いつものように芝刈る輝昭に手を振ることをしない。しばらくしてから不審に思ったのだろう輝昭がエンジンを切ってジャックの家の玄関のほうに歩いた。ドアを二度ほどノックすると、ステイシーがドアを半分開け、ゆがんだ顔で輝昭を見た。ステイシーが子供のように泣き出した。輝昭が腕を回してやさしげにステイシーをハグした。中に入っていった。
輝昭はしばらく出てこなかった。
ステイシーとジャックは輝昭に警察の来訪を言っているに違いない。行方不明になっていた娘が他殺体となって発見されたことを言っているに違いなかった。
蘭子は木陰の椅子に坐り輝昭の出てくるのを待っていた。ステイシーとジャックの話をどんな思いで聴いているのか。どういう反応をしているのか。
二十分ほどして輝昭が出てきた。明らかに自失している。先ほどまでの輝昭とは様子が違う。ところが蘭子の視線を意識すると、輝昭はいつもの笑い顔を作って手を振った。芝刈り機のエンジンをかけた。
(続く)