2017年8月17日 第33号

 

 

イラスト共に片桐 貞夫

 

 この日も快晴でCNタワーからの眺望は素晴らしかった。オンタリオ湖が海のように無限に広がり、トロントダウンタウンのビル街が高さを競って突き出ている。方向を変えると大学の森が都会にオアシスを作り、輝昭のクリニックは北方向でスモッグの下に霞んでいた。

 帰ってくると隣のジャックがベランダに坐って呆然としている。蘭子が日系夫婦に礼を言って車から降りると、ステイシーもドアから出てきて蘭子を見た。

 車が去ってから蘭子が歩み寄った。

「一つ仕事を終わらせてきたわ」

 蘭子はステイシー夫婦の直面する災厄に遠慮して、CNタワーでのランチのことは言わなかった。

 二人は浮かぬ表情で蘭子を見ている。助けを求めているようであった。

 二人の悲しげな素振りが、昨日の警察官からの報告にあることは間違いない。行方不明ならば、たとえ二十年経とうが帰ってくる可能性が残っている。しかし白骨になって発見されたのでは、万に一つの希望もなくなってしまう。それだけではなかった。死因が第三者による「殺害」と断定されたのだ。

「・・・ 」

 蘭子は慰めの言葉もないままベランダの前に立ち、日本へのみやげ用に買ったクッキーの一箱をショッピングバッグから出して二人に与えた。

「おいしそうだから買ってきたの」

「ありがと」

「けけけ、けい… しゃつウウウ… が…けい… きた… ままま」

 蘭子がジャックの言葉に首をかしげているとステイシーが補った。

「警察が、警察がまた来たの。ついさっき帰ったのよ」

「そう、また来たの? それでなんだって、今日は」

「手紙の中に友達の名前があったの。警察はその人を知らないかって訊きにきたのよ」

「手紙?」

「ランコに言わなかったかしら。きのう来たとき、警察はジェニファーの手紙をみんな持っていったのよ」

「そうそう、そうだったわね。それで、手紙の中に人の名前が書かれていたのね」

 蘭子の心臓が昨日のように躍りだした。

「それで、それ、なんていう名前なの」

「ウウウ… 」

「ねえ、その名前…」

「テテテリー… テテテテ…リー」

 ジャックがまず言った。

「テリーっていうの」

「テリー?」

 口の中でその名を繰り返した蘭子は吐息することを忘れた。

 テリー、テリー…

 輝昭はかつて自分をテリーと呼んだことがある。『おれ、カナダに住むようになったら名前を変えるんだ。テルアキなんて面倒くさい名前をやめて「テリー」になるんだ』と蘭子に言ったことがある。実際にその名前を使ったかどうかわからないが、蘭子にとって「テリー」とは忘れることのできない名前であったのだ。

「で、そのテリーっていう人がどうしたって書いてあったの」

 蘭子が高ぶる感情を懸命に抑えて訊いた。

「なんにも書いてないの。一言、テリーっていう友達ができたっていうことが書いてあるだけなの」

「それだけなのね。手紙、何通あったか知らないけど、一言、書いてあっただけなのね」

「そうなの。だからあたしたちだってなんにも分からないのよ。テリーっていう人が男か女かも」

 蘭子が腹の中だけで胸をなでおろした。たしかにテリーという名前は男でも女でもあり得る。

「どういう友達だったのかしら」

「分からないわ。でもブリティッシュ・ コロンビア大学の学生だったらしいわ」

「コ、コロンビアの?」

 蘭子の声が震えた。

「…そんなことも手紙に書いてあったのね」

 「東洋人」「日本人」「医学部の学生」等の言葉が出てくるのを恐れつつ蘭子は訊いた。

「ちがうの。警察に言われてやっと思い出したんだけど、一度、電話してきた時に言ったのよ」

「電話で? 電話でもジェニファー、そのテリーっていう人のことを言ったの?」

「ええ、でもそれだけなの。ブリティッシュ・ コロンビア大学の学生であるって言っただけなのよ」

「それだけしか言わなかったの?」

(続く)

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。