2017年8月31日 第35号
イラスト共に片桐 貞夫
その晩、輝昭は帰宅するや着替えを済まして隣家に行った。
明らかにジェニファーの死体発見に動揺している。輝昭は警察の動向が気になるのに違いなかった。
蘭子はジョージエットの手を引いて庭に出た。夕方の散策を装って隣の庭に足を延ばした。輝昭は隣家の中にいる。今ごろステイシーの口から「テリー」という名前が出ているはずであった。
蘭子は輝昭を哀れに思った。輝昭は人を傷つけることのできない優しい性格を持っていた。女を殺すなどできるわけがない。しかしジェニファーは死んだ。何者かによって確実に殺され、二十年もの間、人知れずどこかに埋められていた。
ジェニファーは両親への手紙に、テリーという友達ができたと書いたという。少なくともジェニファーは両親に知らせたいほどテリーという友達が好きであった。テリーが輝昭なら、輝昭もジェニファーという美しい少女と知り合って心をときめかしたに違いなかった。それがどこでどう狂った。どうしてジェニファーが死ぬことになってしまったのだ。
輝昭が隣家から出てきた。顔をうなだれて蘭子の存在に気がつかない。
「てるあき」
蘭子の声に輝昭が立ち止まった。
「どうしたの」
「どうもしないよ」
輝昭はすばやく笑みをつくろって蘭子を見た。
「なにか問題があるんじゃあないの」
なにも知らないことになっている蘭子は遠まわしに訊くしかなかった。
「うん、ジャックの家にねずみが出るんだ。いくら退治しても出るんだよ」
「そんなことじゃあないわよ。言ってちょうだい。あんた…母さんになんでもいいから言ってちょうだい」
蘭子の声が哀願するようになっている。
「うん、なんかあったら相談するよ」
「か、母さんね…」
蘭子は黙っていられなくなっていた。
「母さん、ステイシーたちの娘さんのことを聞いたの。きょう警察が来て、その娘さんにテリーっていう友達がいたことを聞いたのよ」
蘭子は、己が「テリー」という名前の意味を知っているということをあらわにした。「おれ、カナダでは名前をテリーに変えるんだ」と言った輝昭の言葉を憶えていると輝昭に知らしめ、協力し合ってことに備えようと提案したつもりであった。
しかし輝昭はふたたびねずみのことを言った。
「台所の流しの下にねずみの通れる穴があるっていうことがわかったんだ」
「輝昭、ね、いい? 聞いてね。あたしはね、あたしは輝昭の味方よ。どんなことがあっても輝昭の味方よ。どんなことがあっても…」
「グランマ」と心配顔で抱き寄るジョージエットに蘭子は、自分も泣いていることに気がついた。 輝昭が顔をそらせて、わかってるよと言った。
夜が明けた。北国の短い夜であったが蘭子は夜が明けるのが待ちきれなかった。
「グッドモーニング」
八時まで待ってリリアンに電話した。ドクターエーデルマンの息子チャッドの妻である。
「二十分だけでいいの。会ってくれない?」
「もちろんよ」
リリアンは蘭子の口調にただならぬものを感じたのだろう、蘭子がタクシーで行くと言ったが、あたしが行く方が早いと言って、蘭子に待っているように言った。
「中絶のことでなにか嫌がらせがあったのね」
蘭子を拾うやハンドルを回しながらリリアンが訊いた。
「ちがうの…」
蘭子はなにから言っていいかわからず言葉を詰まらせた。
「ちょっと待っててね。いま公園に行くから。この近くに静かな公園があるのよ」
「ごめんなさいね」
「いいのよ」
その公園はテイラークリークパークといって、リリアンが言うように大木が茂る静かなところであった。早朝のためか駐車場に車一台ない。
車が木陰に停まってリリアンがエンジンを切った。
蘭子が言った。
「わたし、分からないことがあるの」
「どういうことかしら」
「わたし、わたし、輝昭がわからないの」
「テルアキが?」
「輝昭がなにを考えてるか分からないのよ」
「なにかあったのね。言ってちょうだい」
「…」
(続く)