2017年8月24日 第34号
イラスト共に片桐 貞夫
「だから苗字もなんにも分からないのよ」
「そう?」
ほっとしたように蘭子は言ったが、胸が早鐘のように鳴っている。
「ほかに警察、なんか言った?」
「なんにも言わないわ。私たちがなんにも知らないんでがっかりしていたようだわ」
『テリー』は男か女か分からないがブリティッシュ・コロンビア大学の学生であるという。とすれば警察は、二十年前の学生名簿を徹底的に調べるであろう。
蘭子はその場に立っていることができなくなっていた。
「またあとで来るわ」
蘭子が家の方に歩き出した。歩みに合わせて深呼吸を繰り返し、胸の鼓動を和らげようとした。
はたして「テリー」は輝昭なのか。輝昭はジェニファーを知っていたのか。知っていたとするとどういう関係だったのだ。
いずれにしてもジェニファーは死んだ。二十年後の今になって他殺体となって発見された。人を殺すなどあり得ないが、輝昭は理由らしい理由もなくバンクーバーからトロントに移った。そしてマクマスターを卒業し、二年ほどしてからジェニファーの両親の住むすぐ隣に家を買ったのだ。以来、ステイシーとジャックを実の親以上に面倒をみてきたのだった。
蘭子はめまいを覚えて輝昭家の玄関の柱にもたれかかった。
蘭子が呼吸を整えてからドアを押した。
ジョージエットとクリスティーンが床に坐ってなにやらしている。「ハーイ」
「ハーイ」「ハーイ」
二人が蘭子に返して言った。
「よかったわCNタワー」
「そう」
クリスティーンはそれ以上訊かない。どうしていいか分からないまま蘭子はリビングを横切ってキッチンに行った。手を洗おうと思った。
「わかったわ、数字」
クリスティーンが不意に言った。
「……」
蘭子がなにも言わずに振り向いた。
「前の数字よ」
「え」
頭が動転していてクリスティーンの言っていることがわからない。
「1964の前の数字よ」
「あ…」
蘭子にようやくそれがなにか分かった。クリスティーンは輝昭の刺青のことを言っている。
「19よ」
「え」
「19よ」
「19?」
「そう」
「っていうことはどういうこと? 1964の前にまた19がつくの?」
「そう」
「じゃあ191964?…191964なのね。っていうことはどういうことなのかしら。西暦1919で、64がなにかを意味するのかしら。それとも最後の四桁が西暦で19がなにかを意味するのかしら」
「わからないわ。今晩、テルアキに訊いてみるわね」
「いえ、いいわクリスティーン。訊かないで。どっちでもいいことだし、別になんだっていいのよ」
なんでもよくはない。蘭子の推測が正しいとすると、隣家の娘ジェニファーの友達であり、その死に責任を感じてその両親の隣りに住みだした輝昭は重大な秘密を抱えて生きている。この刺青の数字もそれにつながる大きな意味を持っていると思われた。しかし蘭子は、自らの疑惑が輝昭に知れるのをそれ以上に恐れたのだ。
二十年まえ、輝昭とジェニファーの間になにが起こったのかわからないが、輝昭は残生を費やしてジェニファーの両親ジャックとステイシーに尽くそうとしている。自らを省みず二人の面倒をみているのだ。なにが起こったのか。輝昭はどんなことをしてしまったのだろう。
しかし、このまま蘭子さえ口を開かなければなにも分からない。輝昭が「テリー」と分からないし、二十年前のことは今までどおり、誰に知られることもない。
ただ…
ただ一つの心配は、警察がブリティッシュ・コロンビア大学の医学部名簿を調べているうちに「テリー」という俗称と「テルアキ」が結びついてしまうのではないかということであった。「テリー」という名前がなければ、外国からの留学生が多いことを知っている警察は、当然とそれに近い外国人名を探す。
ああ輝昭はなにをしたのだろう。ジェニファーはどうして死んだのだ。191964という刺青はなにを意味するのだろう。
(続く)