2017年9月7日 第36号
イラスト共に片桐 貞夫
しかし蘭子の口が開かない。しばらく待ってからリリアンが腰をすえたようにして続けた。
「いい? なにがあったか知らないけどこれだけは確かよ。輝昭は立派な人よ。ドクターが最も信頼してる人よ」
たしかにドクターもチャッドも輝昭を信頼しているであろう。それは疑いの余地もないことであった。しかしことは殺人事件に発達して、重大な事実があらわになってきておりエーデルマンたちの信頼とは別問題であった。そして蘭子は輝昭のことを思えば思うほど、胸中のすべてを言う訳にはいかないことを思うのであった。
「ありがとう。そうね。あたし興奮してるのね。いえ、きのうね、つまらないことで輝昭とけんかしちゃったのよ。それで誰かと喋りたくなってリリアンに電話しちゃったのよ」
蘭子が言葉をゆがめてしめくくった。
一度、耳に入ればどんな親友といえども事実は事実として証言しなければならない。腹蔵なくすべてを聞いてもらえばどんなに気が休まるか知れないが、蘭子は裁判になった場合のことを思うと、リリアンのためにも口にしてはいけないことに気がついたのであった。
「ああ、そうなの? そうね、分かるわ。親しい人との誤解ほどつらいことはないものね」
「そうなの。そうなのよ。…ところで…」
蘭子が声音を変えて続けた。
「ドクターのこと聞いたわ」
「ドクターのこと?」
「昔のことよ」
「アウシュビッツのことね」
「ええ」
「悲しいことだけど遠く過ぎ去ったことだわ」
「あの…ドクターの刺青はなんて書いてあるの?」
「いれずみ? ああ、腕のね?」
一瞬、リリアンは戸惑った顔をしたが、静かに微笑んで答えた。
「数字よ。当時、ヨーロッパのユダヤ人は名前なんか無視されて番号で扱われていたのよ。腕に彫られた刺青の数字がドクターの番号だったのよ」
「人類史の汚点ね。で、数字はいくつなの?」
「数字? 知らないわ」
「19ではじまらない?」
「どうしてそんなこと訊くの」
「じつは私、きのうまで知らなかったんだけど輝昭の腕にも刺青があるっていうことを知ったの」
輝昭の刺青のことを口にすることに抵抗はあったが、そのことに躊躇などしていられなくなっていた。
「やはり数字なんだけど、リリアン、知ってたかしら」
「私は知ってたわ。でも、ランコには知られたくないって輝昭が言ってたのを憶えているわ。刺青って日本ではビラン(悪者)がするもんなんでしょう?」
「そうとも限らないんでしょうが、まあそうよね。それでね、輝昭の刺青は19で始まるの。ドクターのもそうじゃないかと思ったのよ」
「違うわ。Mよ。ドクターのはMではじまるのよ」
「M? Mなの? じゃあMのあとはなにかしら」
「Mのあとは確か8。8で始まって8がもう一つあったわ」
「そう?」
蘭子が首をひねって下を向いた。
Mで始まって最初の数字が8。そして四桁数字の中にもう一つ8があるという。
関係ない。輝昭の数字とは何のつながりもない。…
では、191964とはどういうことなのか。蘭子が首をひねっているとリリアンが訊き返した。
「どうしたの」
「いえ、わたしも分かってないんだけれど…」
と言ってから蘭子が思い切ったように続けた。
「じつはね、輝昭の腕の刺青は『191964』なの。それがどういうことなのか知りたいの。それに、どうして彫ったのか知りたいのよ」
「ちょっと待ってね」
リリアンがペンを出して蘭子の言った数字を紙に書いた。
「191964ね」
「ええ」
「そうねえ、分からないわ」
リリアンが数字を見ながら考えるそぶりをした。
「あらこれ…あたしの生まれた年だわ。1964年に私、生まれたの」
さすがにリリアンはカナダ人である。年月日の数字はうしろから読む。日本流に前から数字を並べるのではなく、うしろの1・9・6・4を一緒にしたのだ。
(続く)