2017年8月10日 第32号

 

 

イラスト共に片桐 貞夫

 

 蘭子は知っている。アウシュビッツという地名を聞いたことがある。第二次大戦中、ヒットラー独裁のナチスドイツは六百万人ものユダヤ人を虐殺した。アウシュビッツは、その「死の収容所」の一つで最大のものであった。

「アウシュビッツのユダヤ人は、識別番号を腕に彫られたのよ」

「じゃあじゃあ…」

 蘭子の声がようやく高ぶっている。

「そうなの。ドクターは殺されるところだったの。家族は全員殺されたけど、ドクターだけは死ぬ寸前に終戦になったらしいわ」

「……」

 蘭子は言葉を失った。

 ナチスドイツのユダヤ人虐殺は知っていたが、遠いヨーロッパの歴史上の出来事として深慮したことがなかった。たった六、七十年前に起こったこととしてはあまりにも現実離れしているように思えたのだ。  蘭子は、笑顔を絶やさないエーデルマンのことを思った。

 ああ、なんと、あの老医師はナチスの犠牲者であった。年齢からして子供でしかなかっただろうエーデルマンは、なにをどうしてかアウシュビッツから生還した。そして、どういう過程を経てかカナダに来、医者になったのであった。

 一九六九年来、エーデルマンはカナダで不法となっていた「妊娠中絶」を公然と執行して監獄への出入りを繰り返した。そして、ついに、その法律を変えることに成功し、女性のために「中絶する権利」を勝ち取ったのだ。暴力デモする人々の矢面に立って手術を続行してきたのだった。

「それでだったのね」

 止めていた息を大きく吐いてから蘭子がうなずいた。

 なるほどと思った。入獄も暴行をも恐れない不屈の魂はアウシュビッツという極限の場所で培われてきたのだった。『僕には怖いものがありません』というエーデルマンの笑顔が見えるような気がした。

「立派な人なのね」

 しみじみと言った蘭子の口調にクリスティーンが静かに微笑んだ。

 しばらく忘我した蘭子が声音を変えて言った。

「輝昭はドクターに感化されたのね。ドクターを崇拝するあまり、ドクターと同じものを自分の腕に彫ったのね」

 蘭子一人の口舌が続いている。

「そうだわ。妊娠中絶っていう歴史を変える大問題に、輝昭は自分の身体に刺青を彫って励みにしたんだわ。反対運動に対抗するにはあの刺青の勇気が必要だったんだわ」

「……」 

「いつなの? 輝昭が刺青したのはいつのことなの」

「しらないわ。わたしと知り合った時はもうしてたわ」

「そう?」

 刺青は、輝昭の士気を奮い立たせるものであったろうが母親の蘭子に見せられるものではなかった。「刺青」というのは日本の場合、特殊階級の人間がするもので、輝昭は蘭子に無駄な心配をさせまいと、裸になることも半そでシャツになることもしなかったのだ。

「クリスティーン、輝昭のその刺青の数字、何桁なの? どういう数字なの。いつも何気なく見ているから今でもわからないのよ」

 蘭子は、クリスティーンが警戒することを思ってうそを言った。いつもなど見ていない。きのう初めて刺青の存在を知ったばかりであった。

「しらないわ」

「でも、ドクターみたいに数字だけなんでしょう?」

「そう、数字なの。そうそう、最後の四桁は知ってるわ。1964よ」

「1964? あといくつ数字があるの」

「わからないわ。二つか三つだと思うわ」

「そう?…1964?」

 蘭子の思いが数字にある。19で始まるから「西暦」の年数が思われた。「1964」とは1964年のことか。そうだとするとその年になにがあったのか。どういうことなんだろう。輝昭の生まれた翌年であった。

 

   十一、

 この日は、朝の十時になると日系の老夫婦が来た。すでに電話で知らされていたことではあったが輝昭に世話になっている者とかで、謝礼の意味で、その母親である蘭子をCNタワーに連れて行きたいという。CNタワーとはトロントが世界に誇る高いタワーで、地上三百メートルのところで食事ができるという。蘭子は輝昭のことが気になって行く気になれなかったが、三時には帰れるというので受諾することにした。

(続く)

 

 

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