2017年7月20日 第29号
イラスト共に片桐 貞夫
「え? いえ、いいの。いいのよ、大したことじゃないんだから」
いちばん気になることであったが、蘭子があわてて断った。蘭子が輝昭の過去に疑惑を持っていることを輝昭に知られてはならない。 「どうでもいいことなのよ。それにしても私、がっかりしちゃったわ」
蘭子は意識して話題を変えた。
「……」
クリスティーンが「どうして?」とも言わずに蘭子の言葉を待っている。
「だって輝昭ったら、せっかく買ってきたものをみんな人にあげちゃうんだもの。納豆にしても漬物にしても輝昭の大好物なのよ。それをみんな人にあげちゃったのよ」
「テルアキはね、自分よりも人が喜ぶほうがうれしいの。人がうれしそうにしているのを見るほうが楽しいんだって」
「そうなのね」
蘭子は信じないわけにはいかなかった。文字どおり、輝昭は身の危険を冒して妊娠中絶を生業としている。子供を産めない女を女房に選び、他人の子を育てている。
それはすばらしい性格である。天使のようである。
しかし蘭子は首をかしげた。いくら素晴らしい性格といえども輝昭は蘭子の血を分けた「人間」でしかなく、天使であるわけはなかった。
「わたし、きのう、ステイシーのところに行ったの」
蘭子が足を組みなおしてから続けた。
「それで分かったんだけど、ステイシーたちに娘がいたのね」
「ええ」
「もう、何年も前から行方不明なんだってね」
蘭子は警察の来訪やその報告の内容にふれずに言った。クリスティーンがどういう反応をするか知りたかったのだ。しかしクリスティーンは、うなずくことはするがなにも言わない。
「写真を見せてもらったけどきれいな子なのね。どうしていなくなっちゃったのかしらねえ」
「しらないわ」
「二人とも泣いてたわ。だって、ちゃんと生きてたら今ごろ孫がいるだろうし、どんなに可愛いことか」
「……」
「クリスティーン」
蘭子がやさしくクリスティーンを見た。
「あなたも不運ね。あなたも女だから赤ちゃんを産みたかったでしょうに」
「……」
クリスティーンは蘭子の言葉に答えずとまどったように目をそらした。
「なにか病気でもしたの?」
クリスティーンにとってつらい話題とは思ったが、蘭子はクリスティーンに好感を持ちはじめていたのであえて訊いた。クリスティーンの心情を理解し、より、親密になりたいと思ったのだ。
ところが、クリスティーンが不満そうに唇をとがらせた。
「あかちゃん?」
「ええそうよ。クリスティーンは、なにか病気でもして、赤ちゃんを産めない身体になっちゃったんでしょう」
「ちがうわ。産めるの」
「え」
「あたし、赤ちゃん産めるの」
「どういうこと?」
蘭子は自らの英語が稚拙で、意味が通じてないことを思った。
「産めるってどういうこと? あなたに赤ちゃんができないんでジョージエットたちを養子にしたんでしょう」
「あたし、赤ちゃん産めるの。テルアキがレセクタミーしたの」
「え」
蘭子はクリスティーンの言った単語が解らなかった。
「いまなんて言ったの」
「テルアキがレセクタミーしたの」
「レ、レセク……。どういうこと」
「レセクタミー」とは医学用語のようである。意味はわからないが蘭子の心臓が躍るように鳴り出した。
「もういちど言って」
「レセクタミー」
蘭子が立ち上がって輝昭の英和辞典をつかんだ。しかし「レセクタミー」は出ていなかった。
蘭子が懸命に訊いた。
「ク、クリスティーン、レセクタミーってなに? どういう意味なの」
クリスティーンが困った顔をした。
「レセクタミーって男の人が受ける手術なの」
「え、えっ、もういちど言って」
「男の人が、赤ちゃんを生めないようにする手術なの」
「……」
蘭子が口の中で叫んだ。
パイプカットだ!パイプカットだ!…
蘭子が立ち上がった。電話機のところに行った。そしてクリスティーンにどなるように訊いた。
(続く)