2017年5月18日 第20号
イラスト共に片桐 貞夫
「脱ぐとかえって暑いんだよ。それに俺はすぐに日に焼けて、ゆでダコみたいになっちゃうんだ」
「そうかしら」
首をかしげながら蘭子は、水泳、ヨット、サーフィンと海のスポーツだったらなんでもこなした輝昭の青春時代を思った。湘南海岸でのアルバイトは例年のことで、夏になるや輝昭の全身は真っ黒に焼けた。お嬢さん育ちであった蘭子には、こうした野人のような輝昭がなによりもの自慢であったのだ。
しかし輝昭は裸にならない。もう、何年、輝昭の裸を見ていないだろうと蘭子は思った。
火がおこってくると、輝昭が腕時計に目をやってからチャッドとリリアンに言った。
「焼きはじめようか。ドクター、もうそろそろ来るころだろう」
「ええ、いいと思うわ。でも来ない可能性もあるのよ。期待しないでね」
「わかってるよ」
輝昭はリリアンに微笑むとアイスボックスを開け、スーパーで買った生のハンバーガーを出した。
蘭子に輝昭の言う「ドクター」が誰であるか判る。会ったことはないが、それは「ユーリー・エーデルマン」という医者で、チャッドの父親であると同時に、カナダにおける妊娠中絶運動の中心人物であった。この人の存在がなければカナダの中絶許可条例は二十年遅れるといわれ、輝昭が畏敬の念を抱く人間であったのだ。
人は生身の動物でしかなく、国や社会がどんなに禁止しても望まぬ妊娠は起こり中絶は不可欠になる。それを無理に犯罪にしたてて告発しても、ちょうど一九二〇年代の禁酒法の時、アメリカのギャングが醸造で暗躍したように、闇の堕胎医師がはびこってくるようになって、その窓口が怪しげな裏通りに場所を変えるだけのことであった。
ユーリー・エーデルマンが医師として妊婦の堕胎許可の必要性を政府に訴え、公然と手術をするようになったのは三十年も前のことであった。闇に泣く妊婦たちの絶叫を無視できなくなっていたからだ。
しかし法は法である。エーデルマンは即座に逮捕され投獄された。そして釈放されるとふたたび堕胎の手術をした。マスコミの目がエーデルマンに向けられるようになった。入出獄を繰り返しては我が身を顧みないエーデルマンの行動が多くの人の目を覚ましたのだ。中絶禁止令という法律が多くの悲劇を誘発しているということにようやく気がつき、「プロチョイス」の運動がカナダ全土に萌芽した。建石輝昭がトロントの郊外に「中絶クリニック」を開いたのは、エーデルマンの不屈の訴えが実を結び、法律条令が変わったばかりの頃であった。
ヨットの白帆が水平線を飾っている。飛行機雲が音もなく天を二つに分けている。
蘭子は目を湖面に落とすと、浜辺でくつろぐ人々を見た。子供たちの叫声が飛び交っている。大人も童心に帰ってボールを蹴っている。
と、その時、視野の外にいたプラカードを掲げる者たちの動きに変動が起こった。静止したのだ。全員がこちらを見ている。「ミセスたていし」という声が起こったのはそのときであった。
蘭子が振り返った。
小柄で痩せたヤギひげの老人が蘭子にむかって微笑んでいる。七十を越していると思われるのに派手なアロハシャツに半ズボンである。
「おお、ダッド(お父さん)!」
「ドクター!」
チャッドと輝昭の声が混じった。蘭子が立ち上がった。
「ミセスたていし」
老人はチャッドたちを無視して蘭子から目を離さない。そして「わたしはチャッドの父親のユーリーです」と言うと、蘭子に近づきハグした。チャッドの作法と同じで、相手の心臓の鼓動を感じさせるほど強いものであった。
「よくいらっしゃいました。テルアキからあなたのことは何度も聞いています。お会いするのは初めてですが、あなたが世界一の母親であるということも知っています」
「まあ」
エーデルマンのチャーミングな言葉に、蘭子は少女のような声を上げて破顔した。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「ダッド、もう来ないかと思ったよ」
チャッドが言った。
「来ないつもりだったんだが、ミセスたていしに会えるっていうんで来たんだ」
(続く)