2017年4月20日 第16号
イラスト共に片桐 貞夫
フェアーレディーとは、輝昭が日本で乗っていた二人乗りのスポーツカーである。
「フェアーレディーか。そんな車に乗っていたこともあったな」
しみじみとなつかしそうに言った輝昭の口調に蘭子はいやな気がした。七、八十の年寄りが昔を回顧しているかのように聞こえたのだ。
「あんた、いま、フェアーレディーに乗っていたっておかしくない年齢よ。輝道なんて、今でもなんとかGTに乗ってるわ」
輝道とは輝昭の兄である。
「ね、買ってやろうか」
蘭子が声を低めて興奮したように言った。
「母さんがお金出してやろうか」
「いいよ」
輝昭がそくざに首を振って言った。
「金ぐらいあるよ。俺だってドクターだぜ」
「だってあんた、買わないじゃない、なんにも」
「贅沢はきらいなんだよ」
「贅沢しなくたっていいけど、もうちょっと良い車、買えないの? 納豆ぐらい自分で食べたっていいでしょう」
納豆や車だけでなかった。輝昭の所有するもののすべてが貧相で使い古しである。
「いいんだよ母さんが心配しなくったって。俺は俺でなんの不自由もない生活してるんだから」
「わかったわ」
蘭子は口を閉じるしかなかった。
車がスピードを落として右折した。湖畔の公園に入った。ピッケリングビーチである。
「デイビーだ。デイビーが来てる!」
後席から二つの声が同時に上がった。
さすがに五大湖の一つである。湖畔といっても海のようで対岸が見えない。雲一つない炎天下に色さまざまなパラソルが公園をうめていた。
輝昭が車をバックして駐車場に停めた。
三人の子供が、まだ車が完全停止していないというのにドアを開け走り出た。輝昭が車から降りて手を振っている。ある一組の半裸の白人カップルと二人の子供が、こちらの到来に気がついて手を振りかえした。
蘭子はこの家族に二度ほど会ったことがあった。同じ公園の野外バーベキューで紹介されたのだ。
男の名前はチャッド。やはり産婦人科医で、輝昭と同様、中絶クリニックをしている。妻はリリアンといい、夫婦ともにユダヤ系であるという。チャッドは輝昭よりいくつか年上のようであるが、やさしくって思いやりがあり紳士である。妻のリリアンも心から蘭子を好いているようで細かいことに気を配ってくれる。
夫婦には二人の子供がいた。それぞれ十才前後の男女だが、男の子は母親に、女の子は父親に似て可愛かった。輝昭にこんな子がいたらどんなに幸せだろうと蘭子は思ったものであった。
蘭子は、いくつかのバーベキュー道具を持たされて、彼らの陣取るところに行った。
「ランコ!」
チャッドとリリアンが歩み寄って蘭子を抱きしめた。
「ランコ。お元気でしたか」
二人とも蘭子を名前で呼ぶ。欧米式の親愛を表す方法である。
蘭子への抱擁が終わると夫婦同士の握手がはじまる。クリスティーンが初めて歯を見せて笑った。
「ランコ、暑いでしょ、ここに坐って」
チャッドは輝昭と積もる話があるだろうに、しきりに蘭子に話しかける。パラソルの日陰に坐るよう蘭子にチェアーをすすめた。
「レッツゴー!」
ルパートといういちばん年上の男の子が、服を脱ぎ捨てるや水辺の方に走り出した。するとチャッドの二人の子が、ぼくたちも行っていい?と夫婦のところに来て訊いた。同じカナダの子供なのになんという違いなんだろうと蘭子は思った。
「君たちはどのくらい深いところまで行くつもりなんだ」
チャッドがユーモア混ぜて訊き返すと二人の子供は声を合わせ、腰の深さまで腰の深さまでと口もどかしく叫んだ。チャッドが、オーケーとうなずいて二人の尻をたたいた。
「わー!」
二人は輝昭の子供たちを追っていった。
クリスティーンはチャッドとリリアンにならってスカートを脱ぎ、水着になって蘭子の横に坐った。しかし輝昭は裸にならない。木綿の長袖シャツを着ている。アイスボックスを開けて、それぞれになにを飲むかと訊いた。
(続く)