2017年5月11日 第19号
イラスト共に片桐 貞夫
「このあいだ面白いことがあったよ」
六人の男女から目を離したチャッドが手早く輝昭に言った。
「うちのクリニックであったことなんだけど、中絶に来た患者が男だったんだ。女に化けて入ってきて、僕に飛びかかってきたんだ」
カナダの中絶クリニックは、数々の暴力行為などをかんがみて、妊婦以外は入れないようになっている。
「それで?」
輝昭が心配そうにチャッドの次の言葉を待っている。
「いやそれだけだ」
「暴行されたのか」
「殴られただけだ」
「なんにも凶器は持っていなかったのか」
「なんにも持っていなかった。ただ、僕を殴り倒したあと、しばらく居坐ったよ。とうとうと患者たちの前でがなりまくっていたよ」
「そうだったのか」
「うん」
「患者も一人一人チェックしないといかんな」
「そうなんだ。だからその日からガードマンを一人雇ったよ。テルアキの方はどうなんだ」
「うちか」
輝昭が蘭子の方をちらりと見てから続けた。
「うちはない。外でデモられたことはあったが最近は静かになった」
「そうか。それだったら心配ないな。うちの方もだいぶ落ち着いてきたが最近はナースに辞められて困るよ。連中は最近、ターゲットをナースにしているんだ。ナースの帰宅時間を見計らって待ち受け、脅しをかけているらしいんだよ。結局、その脅しに負けて辞めてっちゃうんだな。ずいぶん辞められたよナースには」
「そうか」
輝昭がしんみりと言った。
トロントに三軒しかない中絶クリニックの一軒に起こって、他のクリニックで起こらないことはあり得ない。輝昭のクリニックでも同様な中傷は起こっているはずであり、輝昭も暴行を受けたことがあるのではなかろうか。ナースに辞められているのではなかろうか。蘭子は、輝昭の口舌に事実を曲げたものを感ずるのであった。
風が沖合いの方からかすかに吹いている。日陰にいれば快適だが、直射日光は肌に痛いほど強い。
「さてクリニックの話はやめにしてバーベキューだ」
輝昭が言うと、チャッドとリリアンも立ち上がった。
「母さん、手伝ってくれる?」
「なんでもするわよ」
蘭子がサングラスの中で言った。
「じゃ、この豆炭に火をつけてよ。これがスターターの油なんだ」
「わかったわ。豆炭はどのくらい入れるの。これでいい?」
「それくらいでいいと思うわ。ハンバーガーとホットドッグを焼くだけだから」
リリアンが代りに答えた。
蘭子が慣れない手つきで火をつけた。しかしクリスティーンは何もしない。チェアーに坐ったまま二本目の缶ビールを開けた。
スターターの油が燃えきって豆炭に火がつきはじめた。
デモする人の数が増えている。六人だったものが十人くらいになっている。ピクニックを楽しむ人々の合間をぬって歩いてはこちらの様子を見ている。蘭子は、デモしたこともなければデモされたことなどむろんない。こんな公衆のまっただ中だから、これ以上の行動に出るとは思えなかった。
水着姿のクリスティーンが立ち上がった。背が高く、手足もほっそりしているが、尻と腹が飛び出していて蘭子の目には異様である。
「ちょっと泳いでくるわ」
「ついでに子供たちを見てきてくれ」
歩き出したクリスティーンに輝昭が言った。
「あたしが見てくるわ」
クリスティーンの気の利かなさに、蘭子が思わず声を上げて言った。クリスティーンは、それぞれの者がバーベキューのためになんらかの用意をしているというのに、なにもしない。あげくに、泳いでくると言って立ち去ろうとした。
デモ隊は近づいてきては遠のいていく。ここからプラカードになにが書いてあるか判らないが、色がついていて絵のようであった。
蘭子が水辺から戻ってきた。
「みんな仲良く遊んでるわ」
「ありがと、母さん」
「いいのよ。それより、脱いじゃいなさいよ、そんなもの」
「これか」
輝昭が自分の着ている長袖シャツに目をやって言った。
(続く)