2017年4月27日 第17号
イラスト共に片桐 貞夫
蘭子はオレンジジュースを貰い、クリスティーンは缶ビールを開けた。
「ランコ、ランコはもうトロントのことは誰よりも詳しいんではないですか」
リリアンが笑って言った。蘭子が、ノーノーと首を振って否定すると、輝昭が感心したような口調で、そうだよなあ、母さん。これで何回目、トロントは? と訊いた。
「十五回目。バンクーバーも入れたら十六回目よ」
「バンクーバーにも行ったことがあるんですか」
チャッドがすかさず訊いた。
「すごいなあ」
「行ったことないんですか」
蘭子が首をかしげてチャッドに訊き返した。
「ええ、我々も一度はバンクーバーに行きたいと思っているんですが暇も機会もなくて」
「そうですか」
意外であった。いくら大きな国といってもチャッドもリリアンもバンクーバーに行ったことがないという。
「きれいなところなんでしょうバンクーバーは」
リリアンが訊いた。
「そうですね。美しい街です」
「観光旅行として行ったんですか」
「いえ、輝昭に会いに行ったんです」
「テルアキ?」
全員が輝昭を見た。
「一緒に旅行に行ったんですか」
リリアンがさらに訊いた。
「いえ…」
この時、蘭子はチャッド夫婦が輝昭の「バンクーバー留学」のことに無知であることを知った。意外であった。これほど親しい友だったら互いの前歴は知っていて当然であった。
「バンクーバーでなにをしてたんだ」
「…う、うん。…学校に行ってたんだ」
チャッドの問いに輝昭が躊躇するように答えた。
「がっこー? がっこーってハイスクールのことか」
「…い、いや大学だ。…ブリティッシュ・コロンビアだよ」
輝昭の口調が重い。
「ブリティッシュ・コロンビア? ブリティッシュ・コロンビアか。そうか知らなかった。テルアキはバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学にいたことがあるのか」
チャッドが首をかしげて輝昭を見た。
「ウウウウ……」
そのとき、ジョージエットという一番下の子が泣きながら戻ってきた。
「どうしたんだ」
輝昭が膝の上に抱き上げて言った。
「ポールがいじめた。あたしのことを邪魔にした。…ウウウ」
「そんなことをしたのか。ようーし、こらしめてやる」
輝昭がジョージエットを抱いたまま立ち上がって海辺の方に歩いていった。
会話が途切れた。
蘭子はチャッドから目を離し、ジュースのグラスを口に近づけた。そのとき、妙な人の群れの存在に気がついた。かなり離れていて気がつかなかったが、五、六人の男女がこちらを向いて坐っている。ピクニックを楽しんでいるようには見えず、プラカードのようなものを掲げている。この半裸の人の群れの中で場違いなグループであった。
チャッドが喋っている。
「そうか。テルアキはバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学にいたことがあるのか」
「知なかったわね」
「うん。…どのくらい行ってたんだろう、ブリティッシュ・コロンビアに」
チャッドがクリスティーンの方を見て訊いた。 「知らないわ」
「しらない?」
「そう、あたしも知らないの、テルアキがバンクーバーの大学に行っていたこと」
「なんだ、クリスティーンも知らないのか」
妻であるクリスティーンも輝昭のバンクーバー留学を知らないという。どういうことなのか。輝昭は故意に言わなかったのか。
「そうだったのか。テルアキはブリティッシュ・コロンビアからマクマスターに来たのか」
チャッドの口調がひとりごとのようになっている。マクマスターとはトロントの大学で輝昭はそこを卒業したのだった。
「なんでマクマスターに来たんだろ」
「わたしおぼえてるわ」
蘭子が口を出した。
「輝昭がマクマスター大学の医学部がカナダで一番だからって言ったのを」
「ああそうか。それでマクマスターに編入したのか。テルアキらしいな」
言い終わってからチャッドがふたたび首をかしげた。
「ちょっと待てよ。二十年前のことだろう。あの頃はブリティッシュ・コロンビアの方が上だったんだ。確かそうだよ。マクマスターの方が上になったのはこの十年ぐらい前からなんだ」
「そうよねえ。確かにそうだわ」
(続く)