2018年7月26日 第30号

 5月の半ばから一か月ほど日本に行ってきた。そして矢野アカデミーの同窓会も川崎や名古屋などで行ない、とても楽しいひと時を過ごした。また数年前に日本に行き、東京の会社に就職したカナディアンの生徒とも久しぶりに会った。喫茶店でコーヒーを飲みながら、いろいろ昔話に花が咲いたが、でも何か物足らないね、と少しビールでも飲もうということになり、改めてビールで乾杯した。

 ここで彼からこんな質問が出た。「物足りない」と「物足らない」はどう違いますか、である。うーん、確かに「物足りない」と「物足らない」と二つある。こんなこと日本人はあまり意識したことはないが、生徒は気になる。一般的には「物足りない」が主に使われている。でもなぜか、「物足らない」と言ってしまった。ちょっと困ったが、彼は日本語超上級者。ここで早速日本語講座を始めた。

 これは先ず「足る」と「足りる」の二つの動詞があるからですよ。でも日本語教育では「足る」という動詞は教えない。実際日本人も「足る」という動詞はかなり昔に出来た古語であり、現在は全く使っていない。しかし「足らない」を説明するにはどうしてもこの「足る」という動詞が必要である。

 日本語の動詞には三つのグループがあり、この「足る」という動詞は「売る」などと同じグループの動詞なので「売る」の否定形は「売らない」、だから「足る」は「足らない」である。一方「足りる」は「降りる」などと同じグループの動詞なので「降りる」の否定形は「降りない」だから、「足りる」は「足りない」である。ここで「足らない」と「足りない」の二つが登場してくる。どちらも文法的には正しいからややこしい。

 では、この使い分けは…。正直なところどうして「物足らない」を使ったのか、自分でもはっきり分からない。ほとんど使われていない古いイメージの「足らない」を使って、ちょっとおどけた雰囲気を出そうとしたのかもしれないネ、と彼に言い訳をした。すると彼曰く、「飲み足らなかった」も、もっと飲みたかったけど、お金が足らなかったから、とても残念。こんな場合は「飲み足らなかったね」のほうがいいですよね、である。誠に大した上級者である。

 現在「足る」という動詞は全くと言っていいほど使われていないので、「物足らない」や「飲み足らない」は使わないほうがよさそうである。

 でもこの時、表題の「足るを知る」という言葉を思い出した。そして彼に少し説明したくなった。これは中国の老子という人の言葉で、無いものをねだるのではなく、今あるものに目を向けて満足する、足るを知る者は貧しくとも心豊かである。なかなか深みのある言葉でしょう、と説明した。

 でもビールがもうなくなってしまい、やはりもう少しあったほうがいいよねと、もう一杯注文して改めてしばらくぶりの再会に乾杯した。ほとんどしゃべれなかった生徒がここまで成長した。日本語教師としての喜びを強く感じたひと時であった。

 

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