ラクロスというスポーツをご存知だろうか?クロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて、直径6cm・重さ150gの硬質ゴム製のボールを奪い合い、相手陣のゴールに入れることで得点を競う球技。日本でラクロスの全日本選手権出場選手だった吉澤明子(よしざわあきこ)さんは渡加してケローナに住むようになって十年経った。
日本ではどのようなことをしていましたか?
大学時代に同好の士に呼びかけ『東京女子体育大学ラクロス部』を発足。1990年より卒業するまで主将を務めました。この時代に全日本選手権優勝を果たしました。そして、卒業後の1993年に前述クラブに所属していた同大卒業生を募ってウィスタリアを発足し、1995年〜2002年まで日本ラクロス協会が主催する全国大会ラクロス全日本選手権大会に出場し7連続優勝。93年、97年と日本代表でワールドカップにも出場。2002年に私は最優秀選手を獲得しました。あの時代はチームのみんなと一丸となってラクロスに賭けていました。寝食も惜しんで練習に励んでいた時に現在の夫と知り合いました。彼とは遠距離恋愛でしたし、練習も忙しかったので月に一度会えるかどうかという感じでお付き合いが始まりました。
カナダに来たきっかけは何でしたか?
彼の日本での仕事の任期が切れた時、「自分が外国に住むという体験をしたように、パートナーになる人にも海外で生活する経験をしてほしい」と言われ、納得しました。この時、私の所属するラクロスチームは絶好調だったので渡加するのは苦渋の選択でしたが、彼と一緒に暮らすために決心しました。彼と共にバンクーバーにやってきましたが、同地にはラクロス・チームがなく、他にやりたいことも見つからず、毎日の雨に気持ちが疲れました。そんな時に、ケローナは天候に恵まれており女子のフィールド・ラクロス・チームがあると知り、ケローナに移り住みました。
ケローナでのラクロスはどうでしたか?
コーチをしながらケローナでラクロスをしたのですが、ラクロスの全日本選手として現役バリバリの状態でカナダに来たばかりの私には、カナダ人との言葉の壁、メンタリティーの違いに戸惑いました。そのような状況下でチームを築きあげていくのはとても難しく、残念ながらケローナのラクロス・チームはフェード・アウトしてしまいました。
その後はどのように過ごしましたか?
現在の夫と結婚し、レストランのキッチンの仕事を一年しました。第一子が産まれて2ヵ月後に家が火事になって焼き出されました。引っ越しなど大変だったのですが、最終的にはその家を売却して現在の家を購入するきっかけとなりました。その2年後に夫が重病に罹り、大変な思いもしました。でも、ケローナに来てから知り合った方たちにとても親切にして頂き、何とか切り抜けてこられました。
現在はどのようなお仕事をしていますか?
今は自宅で日本語中心の小さなファミリー・デイケアを経営しています。日本食を出すこともあるのですが、お子さんたちが喜んで食べてくれると嬉しいです。白人の金髪碧眼の2歳児が「よいしょ」と掛け声をかけながら階段を昇ったり、「もっとおににり(おにぎり)ください」と片言の日本語を話すのを聞くたびにホッコリしています。日本人のお母さんを持つお子さんも預かっています。第二子である、もうすぐ3歳になる息子がもう少し大きくなったら、大きなデイケアにしていこうかなと考えています。
現在の仕事以外の活動や趣味などはありますか?
夫婦共々運動が好きなので、冬はスキー、他のシーズンも家族でよく屋外に出掛けています。日本の文化を伝え、日本語を話す公の場を設けたいという気持ちから、昨秋より無償で日本人を親に持つお子さんたちの為に『ケローナ子ども会』を友人と発足。月に一度日本の行事などを取り入れた会を開催しています。ケローナには日本語学校がないので、このケローナ子ども会が日本語学校に発展したらいいなと思ってます。
「不安定で戸惑いながら始めたカナダ生活でしたが、子宝に恵まれ、たくさんの友達に助けられ、小さいながらもビジネスを営むことができている今に感謝しています」と語る明子さんのこれからが楽しみである。
2013年3月14日 11号掲載