2017年4月13日 第15号

 アルツハイマー型認知症を患い、他の病気を併発して、3年前に亡くなった母の命日が過ぎました。最終的に認知症という診断がついてから亡くなるまで約2年。もしかして必要がなかった経静脈栄養で生きながらえたものの、 やせ細って、元気な頃の母の面影は全くなくなり、寝たきりのまま病院で亡くなりました。亡くなる前年の冬の一時帰国中に容態が悪化し、今夜が峠ですと言われてから4カ月余り。医療的介入がなければ、余命を告げられて間もなく息を引き取っていたと思います。もし、医療処置について私一人で決められたとしたら、きっとあの時、何もせずに自然に見送ってあげられたのに。そう思うと、悔やまれてなりません。

 母の場合、介護が必要になってから、認知症の症状がかなり進行するまでに、それほど時間はかかりませんでした。途中、認知症とは直接関係のない理由で入退院するたびに、症状が進行したとも思えます。日がな一日、変化や刺激の少ない病院生活を送ることで、足腰はどんどん弱り、認知機能も落ちていきました。特に大腿骨を骨折した時は、歩くこともままならず、安静にしていたために、取り返しのつかない進行を招いてしまいました。

 定説通り、症状が出るまでにはかなりかかったと思います。しかし、最初の誘因となったのは、おそらく父の死でしょう。父には進行性の病気があったものの、ゆっくり進行する種類と言われていたのに、ある晩、寝ている間に息を引き取りました。 自宅で亡くなったことから、警察が呼ばれ、死因を特定するために検視が行われました。 肺炎をこじらせたうえに、病気の症状が重なったことが原因でした。これは、母にとってかなりのトラウマになったと思います。父が亡くなって暫くは、かなり落ち込んでいたことを覚えています。

 その後、母はもう一度大きなトラウマを経験することになります。たまたま千葉から東京まで習い事に出かけた日に、東日本大震災が発生し、帰宅途中の母は、都内から家に戻れず「帰宅難民」になりました。帰宅 できなくなった市民に、キャンパスを開放していた大学で一夜を明かし、翌日やっとタクシーを捕まえ、夕方近く家に戻りました。その間、携帯電話を持たない母とは連絡が取れませんでした。この後、母は何十年も続けていた習い事を辞めてしまいました。

 その翌年、一時帰国をした時に、私は母の大きな変化を目の当たりにすることになります。 すでに認知症が進んでいて、興味を失ったから習い事を辞めたのか、辞めたから認知症が進む誘因になったのかはわかりません。いずれにしても、それが認知症進行への大きな引き金になったことは確かだと思っています。

 


ガーリック康子 プロフィール

本職はフリーランスの翻訳/通訳者。校正者、ライター、日英チューターとしても活動。通訳は、主に医療および司法通訳。昨年より、認知症の正しい知識の普及・啓発活動を始める。認知症サポーター認定(日本) BC州アルツハイマー協会 サポートグループ・ファシリテーター認定

 

 

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