2018年5月17日 第20号
パーカー先生が亡くなってから、まもなく二ヶ月になる。 人は死ぬ時、知らせたい人には、その死を知らせるのではないかと思われる。
マリアの教会で何年も一緒にクワイヤで歌っていたスティーブンが死ぬ時もそうだった。それこそ偶然にバス停で息子のジョンに行き合わせた時もそうだった。あっちは、オルター・ボーイをしていた時は、10才くらいだったから50才の大人になった今、分からなかったが、私の顔は40年経っても変わらないので有名だから、向こうはすぐ分かって、父親のスティーブンがホスピスで死を待っているのを教えてくれた。そして、その三日後にスティーブンは亡くなった。
パーカー先生が亡くなられた時も、大分永い間お会いしていなかった。息子さんのイアンに時々電話をかけていたが、こんなに突然亡くなられると思っていなかった。偶然Eメールを調べていたら、ピアニストの友人、イルサからのメールが入っていた。彼女はピアニストとして活躍していたから、音楽会に知己が多くニュースはそちらから入ってきていたのだった。最初、「え?」という感じだったが、考えてみれば私も先生も80代の終わり。不思議はない。でもやっぱり悲しい。
先生は、ジョン・木村・パーカーの叔父さんだ。パーカー敬子さんを含めて、一家はエドワード・パーカーという立派な親族の存在によって、ピアニストになることができたと思う。
先生のピアノ教授もひょんなことで始まった。先生は16才の時に、ゴールドメダルでARCTをとった。すると、近所の主婦がやって来て、「私の子供達にピアノを教えて下さい」と言った。「いいえ、私は教えていないのです」と答えたら「あなたは教えるんですよ。今週の火曜日に連れてきますからね」と言って、本当に連れて来たので、そこからピアノ教授が始まったのだそうだ。先生は後に「あの女性には永遠に感謝しています」と仰ったが、先生だけではなく敬子さん一家も、私を含めて、先生に世話になった生徒は皆感謝している。先生は後に大学に行かれて、M・Aをワシントンのシアトル大学でとられたと思う。
先生は芸術家であり、神経が普通人と異なるから、エキセントリックなところがあったが、神経が細やかで、心が優しかった。教え方は一種独特であり、何もネガティブなことは仰らずに黙ってそばに座っておられるだけで生徒は上達した。私がグレード10を取るにあたって、先生はまるで自分が試験を受けるみたいに熱心に力を込めて受かれるようにして下さった。先生の助けなしでは、私はグレード10のディプロマは取れなかっただろう。残念ながら、正規のレッスンを始めたのが57才であったし、幼いときにピアノを弾いたこともなかったので、ARCTはとれなかったが、先生はよく私に「教えなさい。教えなさい」と仰った。「でも、そんな立派なピアニストでもないから」と言ったら「そんなことありません。グレード三、四年まで教えて、試験を通してやることはできます」と自信をつけて下さった。
また、先生は動物に対しては愛の心で接する方であった。先生の動物に対する態度はまた今度の機会に書くつもりである。
今回はジョン・木村・パーカー一家を育てた立派な先生、エドワード・パーカー氏のことを知らせたかった。
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