2018年6月21日 第25号

 日本からアメリカへ渡った移民の歴史が、ハワイから始まった事は広く知られている。今年はその第一歩を記した人々がホノルルに降り立ってから150年目に当たる。そこで横浜にある公益財団法人 海外日系人協会(The Association of Nikkei & Japanese Abroad)が、「海外日系人大会in Hawaii」と称し、ワイキキのホテルで二日間にわたる大きなコンベンションを開催した。

 毎年この協会は、世界各地に居住する日本人、日系人、またはその関係者たちを集めて東京で大会を開催する。どの参加者にとっても、日本のどこかにルーツを持つ人々が、それぞれに居住する国でどのように活躍しているかを知るまたとないチャンスであり、足繁く参加する人たちには旧交を温める場所でもある。筆者も以前に二回ほど参加したが、今回は特に興味深い集いであった。

 日本の歴史を紐解くと、幕末の開国以来外国に出かけた移民たちは、東南アジア、南洋諸島、南米とさまざまである。北米の場合は、ハワイへ1868年5月に3年契約でサトウキビ耕地労働者として150人程が横浜港を出発したのが最初である。その年の日本国内は、政治的に大きな変化を遂げ「明治元年」と改称されたため、彼らを「元年者(がんねんもの)」と称した。

 色々な理由で明治政府からの旅券の発行もないまま出航した人々は、外国で一旗揚げようと思った人がかなりいたと言われている。しかし到着したハワイでの労働は過酷で、怠けてると白人のルナ(小頭)に鞭で叩かれ、多少の病気では休むことも出来ないという奴隷のような生活であった。だがそんな状況を何とか乗り越え、その後明治政府からの協力もあり、3年の契約後もハワイに定住したりアメリカ本土に移動した人々は90人近くいたという。

 まさにその元年者たちの努力が今日の日系アメリカ人の礎を築いたのである。すでに8世までに根を張った彼らは、現在ハワイにおいて政治経済の中心をなす重要なエスニックグループとして、大いなる存在感を示している。

 これはどの国に移住した人々を見ても同じことだが、事業に成功した者もいれば、失敗して尾羽打ち枯らした者が出るのは人の世の常である。加えて、例え故国を捨てた覚悟ではあっても、自出の国が世界の大きなうねりの中でどの様な立ち位置にあるかによって、移民たちの生活が左右されるのを避けることはできない。

 それが日本人にとっては、1942年12月7日にハワイに真珠湾攻撃によって開始された第二次世界大戦という悲劇であった。この一撃によって、それまで築き上げてきた努力が水泡に帰したのは、カナダの西海岸に住んでいた移民たちも同じであった。

 今では日本軍が、真珠湾を第一の攻撃地として選んだ経緯もすでに解明されている。中でも非常に興味深いのは、開戦に導くためにハワイにスパイ活動をするための外交官を送っていたことだ。彼は「森村」と言う偽名を使い、ダウンタウンから山の手に登っていく途中にある当時「春潮楼」と呼ばれた料亭に通いつめた。ここは真珠湾を一望できるため間諜活動には打ってつけで、アメリカの戦艦が停泊していた湾内のフォード島での動きを望遠鏡で観察していたのである。昔は風呂も完備されていたとかで、当時のお金で月700ドルもを浪費し、また自身の身を四十七士の赤穂浪士「大石内蔵助」に例えていたとも言われる。

 だが、そうとは知らない当時の日系人たちは、彼と親しく付き合い知己を得たようだが、その人物が日本に送り続けた情報によって大戦は勃発したのである。後に日系人たちがどれ程驚いたかは想像に難くないが、同胞を裏切った森村の境地はどんなものであったろうか。

 紆余曲折の後、戦後は「夏の家」と改名されたが、スパイ活動をしていた畳の部屋は今も健在で、レストランとして営業を続けている。今回イベントの一環である自由参加の市内観光に、ここでのランチが用意されていたのは思い出深かった。

 いつの世も国を司る指揮官たちの、傲慢と誤った策略から生まれる悲劇は計り知れない。

 

スパイの「森村」が眺めていたダウンタウンの眺望

 

 


サンダース宮松敬子氏 プロフィール
フリーランス・ジャーナリスト。カナダ在住40余年。3年前に「芸術文化の中心」である大都会トロントから「文化は自然」のビクトリアに移住。相違に驚いたもののやはり「住めば都」。海からのオゾンを吸いながら、変わらずに物書き業にいそしんでいる。*「V島 見たり聴いたり」は月1回の連載です。(編集部)

 

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