イラスト共に片桐 貞夫
定吉はしんと静まって動かぬ長屋の路地に入った。天桶をかわして井戸場を過ぎると、「くじらめし」と書かれた白い障子がほんのりと浮かび上がってくる。定吉は前を横切って裏にまわり、裏戸をそっと開けて中をうかがった。すると、すぐに人の気配が近寄って、定吉の耳穴にささやいた。
「外に行こう」
女の声が、眠っているまかない達を気づかっている。
「すいやせん。こんな時にしか来れなくって」
外に出るや定吉が、ささやくような声であやまった。
「なにを言うんだい定吉っつあん。めんどくさいことを頼んじゃったのはこのあたしじゃないか」
琉球のリュウであった。
「すまないねえ、こんなに早く。…で、なんか分かったんかい」
かすかな星茫だけでは互いの表情もわからない。
「かんじんなこたーからっきしなんすが、つまらねえことが二、三」
「どんなことでもいいんだよ」
「どうも、幽霊が出るっていうのはまっことみてえなようで」
「そうらしいねえ。…で、何回ぐらい出たんだい」
「四度ほどらしいす」
「ほんとに幽霊なんかい」
「ええ、そりゃ間違えねえらしいんす。とにかく丁稚が二人に手代が一人、それに女中が三人、口をそろえて言うんすから。言ってることもみんな同じなんすよ。なんでも幽霊は色の白い若え女で、両のほっぺたに赤くえぐられた傷があるそうす。足がねえのに雨戸が閉まっていても、すーっと入えってきて、うらめしやうらめしやーって気味の悪い声で泣くそうすよ」
「うらめしやーか…っていうことは恨みがあるんだね。近江屋にあるんだろうね。なんの恨みなんだろう」
「そいつあー、いろいろ訊いたんすがさっぱり」
「八年前の幽霊も同じだったんだね。ほっぺたの裂かれた色の白い女」
「ええ、そんなようで」
「八年前に出て、また出てきた」
リュウが、かすかに白じむ東の空を見た。
「近江屋の誰に、どういった恨みを?」
しきりに首をかしげている。
「うだつが上がんなくってすんません」
「なんのなんの定吉さん。最初っから全部わかるわけないよ。嫌なこと頼んじゃって悪いねー」
「また張ってみやす。他に何人か訊く目安もありやすから」
「ほんに悪いねー」
「いえいえいえ、とんでもねー」
「近江屋の…か」
ふたたびリュウが東の空に顔をやった。
「定吉っさん。近江屋のことなんだけど。近江屋の主人は奥方一人だっていうじゃないか。奉公人が何人もいるらしいけど。ほんとに奥方一人でやってるんかい。身内はいないんかい」
「いねえらしいす。…けんど、子が一人いやす。赤ん坊すが」
「赤ん坊?」
「ええ、実の子じゃあねえようなんすが」
「貰いっ子かい? いくつなんだい」
「四つだそうす」
「なんで貰いっ子なんだろ。なんで自分の子がないんだろ。結婚しなかったのかいその奥方。だいたい歳はいくつなんだろう」
「四十二歳だそうです。…結婚は今から二十四年前の十八の時にして婿が来たらしいすが、七年後に死んでやす」
「子はなかったんだね」
「そうらしいす」
「そうか。婿は死んだか」
「その奥方の親ですが、母親は子供ん時、父親は十八年前えに死んでやす。男の兄弟が二人いたそうすが、やっぱり病で死んでやす」
「おやおやおや、そうかい」
天寿をまっとうすることの方がまれな時代であったが、不幸続きの家である。
「天保のころにゃ、はやり病が続けてあったっていうからねえ」
弘化と年号が変わったのは八年前のことであった。
「ふた親に死なれ、兄弟に死なれ、そして夫にも死なれて一人ぼっちか。ずいぶんと憑かれた家だねえ。夫っていうのはやっぱり病で死んだんかい?」
「ええ、それが…病っていうことになってるんですが、どうも、てめえで首をくくったようなんで。どいつに訊いても病だっていうんすが一人だけ、そんなことをぬかす奴が出てきやして」
「首をくくった?」
リュウが首をかしげた。
(続く)
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