イラスト共に片桐 貞夫
「なにが心配えすんことあるもんけえ。おれが一緒じゃあねえか」
十三になったミネは、かよいで矢部一丁目の味噌問屋永代屋のこま働きをしている。先方は住み込みを望んだが、タケは、せめて寝る時間だけは一つ屋根の下でと、帰してもらうことになっていた。
「ところでなあタケよ」
定吉が声を低めて言った。
「やぶからぼうな話だが、餅を売る場所あー変えた方がいいようだ」
「え」
「じつはな、きょう、そのことでおリュウさんが来たんだ。おおまがりによ」
「おリュウさんが?」
リュウとは、戸塚宿のはずれでめしやをする琉球女で、おおまがりとは定吉が働く堤工事の現場であった。定吉は、柏尾の川のその工事現場にリュウという琉球女が訪ねてきたと言っているのだ。
「そうなんだ。そんで、おリュウさん、近江屋の幽霊はまんざらでたらめでもねえって言うんだよ」
戸塚の商家に幽霊が出る。それもタケの出す屋台の前の近江屋に出るというのだ。うわさが立ちだしたのは、このふた月ほど前からのことであった。
「まさか」
「おれもそう思ってきた。幽霊なんざいるわけがねえ。だから今の今までなんにも言わなかったのよ」
「で、おリュウさんはなんだって言うの?」
「それなんだ。おリュウさんはな、昔のことを知らねえ」
「むかしのこと?」
「ん。近江屋に幽霊が出んのはこれがはじめてじゃねえ。おリュウさんが戸塚に住むようになる前にも出たんだ。おリュウさんはそのことをおれに訊きに来たんだよ」
「その幽霊、ほんとなの? ほんとに出たの?」
戸塚に住みだして、まだ半年にしかならないタケも知らない。
「出たらしいんだ。おれもこの目で見たわけじゃあねえが、ほっぺたの裂かれた女の幽霊が出たらしいんだよ」
「ほっぺたのさかれた?」
「そうなんだ。両方のほっぺたがバッサリ切られた女らしいんだ」
「へー、それでどうなったの、その幽霊」
「どうもこうもねえ。いつの間にか消えちまった。うわさがとんとたたなくなったんだ。じつは、おれもそんくれえのことしか知らねえんだ」
定吉の喋りは口先がかさむと舌にからむ。これでも以前よりはだいぶ、かたぎのものに近くなってきていた。
「ところがまた同じ幽霊が出るようになったってーわけよ」
「おなじって…今度の幽霊もほっぺたの裂かれた女の幽霊なの? 同じ幽霊なの」
「そうらしいんだ。血がべっとりらしいんだよ。そいで、おらー頼まれたのよ。おリュウさんに、ちょいと探りをいれるようにってよ」
定吉が得意そうに言った。戸塚は倉田生まれの定吉は裏の世界で顔がきく。リュウはそのことにかこつけて定吉に頼んだというのだ。
「探りを入れるって、どうするの」
「いや、二、三の人間に会って、話しをほじくり出すだけのことよ」
「きっと、おリュウさんなんか知ってるのよ。そうでなくちゃーそんなことわざわざ頼みに来ないわよ」
「そうかも知れねえな…ま、そういうわけありで今晩ちょいといなくなるぜ」
タケは「気をつけてね」と言おうとしてやめた。リュウのためなら、たとえ火の中、水の中という気持ちは定吉と同じである。共にリュウに預けた命であった。むしろ、たばこ売りの金次のことの方が思われた。屋台の場所を変えたなら、金次と会えなくなってしまいそうで心配であった。
二、
翌々日の朝であった。
朝といっても中秋の七つは朝たるあかしがまるでない。鶏はまだまだ啼かないし、満天の星空に白じんでいるところがない。月もなくて、草むらの虫の音までもが、まだ真夜中のものであった。
定吉は、矢部の大橋を渡ると右に折れた。柏尾の堤にのったのだ。川に沿って歩いていけば、そでなし長屋はわけもない。かすかに光る川面だけを見ながら、定吉は、探るように小股で足を出していた。
大松の二股を左に降りると、左肩を下げた双子地蔵の豆鳥居が見えてくる。そでなし長屋の古木戸が、黒い屏風のように立っていた。
(続く)
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