イラスト共に片桐 貞夫
「金次さんたらね」
タケがおかしそうに定吉の方に顔を向けた。
「おいしいものは何度も食べるんですって。…ううん、ちがうの。金次さんは…おいしいものは、口に入れるでしょう。噛むでしょう。でもね、のどに入れないんですって。入れてもすぐに出してまた噛むんですって。おいしいものはのどに入れちゃったらもったいないから何度も食べるんですってよ。定吉さん、できる?わたしはできないわ。一度やってみたんだけど…」
「うまいから」
男がはじめて声を出した。やはり少年のような高い声であった。
「タケさんの金つばがうますぎるからだよ」
ほのかな嫉妬とよほどの不愛想に顔をこわばらせていた定吉ではあったが、男の言葉にほくそ笑んだ。礼の一つも言わなければならないと思った。
「やどろくの定吉といいやす。いつもタケがひいきになっているそうで、ありがとうさんす」
定吉が頭を下げた。男は、「いんや」というようなことをつぶやいて首をわずかに振った。
「金次さん、きょう来なかったらどうしようかって思ってたのよ」
先ほどとはうって変わった弾み声に、定吉は、タケが淋しげだったわけを知った。タケは、たばこ売りの金次が来なくなって気を沈ませていたに違いなかった。
男はたった一枚の餅に時間をかけ、いつまでも同じ一口を噛んでいる。タケが言ったように、なかなか二口目を出そうとしない。
陽が沈んでいる。いつの間にか赤とんぼがいなくなって、矢部の山上にいちばん星が出た。
「じゃ、あっしらはそろそろ」
定吉が天秤棒をつかんで言った。
「秋の日暮れはつるべ落としだ。今晩は月がねえから日が暮れたら一巻のおしめえだ」
「金次さんも早く帰った方がいいわよ」
「さあ行くぜ」
定吉が、屋台の上を片づけて肝の入った声を出した。
「そうね。あたしたち行くわ」
タケも立ち上がった。
「ねえ金次さん、またあしたね。これからはまた毎日、来てくれるんでしょう。あしたも来てくれるんでしょう?」
歩き出したタケが手を振りながら言った。
夕焼けの照り返しを失って、金次という男の細い身体が陰鬱を帯びて立っている。立ち去る二人から目を離すと近江屋の方に身体を向け、仏像のようにうつむいて動くことをしなかった。
近江屋の角を曲がって金次の姿が見えなくなると定吉が言った。
「おっそろしく不景気な野郎だな、あの金次ってーのは…」
「いい人よ。苦労してきたのよ」
十の時、父親の放火による無理心中で盲目になりながら生き延び、末っ子のミネを除く全家族を失ったタケは、ミネを負ぶってごぜをした。人の情けにすがって生きてきたタケに、金次という男の辛酸な過去が判るのだ。
「だって、しゃべりゃしねえじゃねえか」
「しゃべるわ。しゃべるわよ、あたしには」
「おれがいて悪かったな」
「なにいってんの」
「奴あー怪我してる」
「え」
「左の脇下を怪我してる」
「ひどいの?」
タケが足を止めて訊いた。盲目のタケにはわからない。
「いや、てえしたことはなさそうだ」
と言ったものの、それが刃物による創傷であることが定吉に判った。金次という男は、あの傷の為に八日間もタケのもとに来ることができなかったのだ。
「どうしたのかしら」
怪我という言葉に足並みを乱したが、タケはたいしたことないという定吉の言葉を信じてそれ以上訊かなかった。定吉も怪我することは日常茶飯事であるし、男なんだから少しぐらいの傷は不可避であると自分に言い聞かせ、屋台の端をつかんで歩調を戻した。
タケが声音を変えて言った。
「遅くなっちゃったわね今日は。きっとミネちゃん、心配してるわ」
日暮れの暗さはわからないが、タケは気温と湿度の昇降で時刻の推移を知る。妹のミネが奉公先でタケと定吉が迎えに来るのを待っているのだ。
(続く)
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