2016年9月8日 第37号
泉康雄
最近、所用でバークレー市を訪れた。バークレーはサンフランシスコ空港から50キロほど東に位置する。例のごとく、朝、レスブリッジよりビーチクラフト1900-Dの飛行機に乗る。名前は物々しいけれど、18人乗りのプロペラ機である。満席で飛行機は5分遅れてカルガリーに向けて出発。カルガリー空港で乗り換え、アメリカへの入国手続きをせねばならない。僕の住むところからアメリカに入るのであれば自動車で1時間も走って、簡単な入国手続きで済むことである。全く面倒なことである。誰が国境などつくったのだろうか、とフト思ったが考えても仕方のないこと。税関では予想していたとおり長蛇の列。昔の汽車の停車場である。交通機関が、汽車や自動車から飛行機に変わった。僕は汽車や自動車の方が好きである。以前には、アルバータから20時間以上かけて、仮眠しながらサンフランシスコまで自動車で行った。そんなのんびりしたことは今はできない。何しろ時代は忙しくなっている。税関で自分の番を待つ間、乗り継ぎがうまくいくのだろうかとすぐ心配になる。しかし、みんな行くところはまちまちではあるけれど、結構落ち着いて黙って並んでいる。それで僕も何となく落ち着いた。
空から見るサンフランシスコは立派であった。ゴールデン橋、サンマテオ橋、そして幾つもの高層建築が見える。空港には迎えが来ることになっていた。しかし待つこと30分。迎えてくれるはずの人が現れない。「国際線の出口で待っていますのでお願いします」と携帯電話で伝える。「あーあー、済みません、国内線の出口と思って待っていました」と返事。カナダはアメリカの人から見ると国境というものはないのか、と変な感じがした。
バークレーを初めて訪れたのは40年前。その後、何度か訪れ、しばらく住んだこともあるが、当時はヒッピーと呼ばれる若者が、朝から道端に、それこそ、ゴロゴロしていた。髪の毛を伸ばし放題にし、マリワナを吸って、ギターを弾いたりしていた。若い女性も色とりどりのヘッドバンドをして、起きているのか眠っているのかわからないような様子でいた。こちらも道を歩くのが不安であった。
カリフォルニア大学を中心にして、各種の研究所もあって、学生町であることは今も変わらないが、その頃は余りきれいとはいえない町であった。この度は数日の滞在で、朝ゆっくりと宿泊場所の周りを歩くことができた。昔もそうであったが、夏のバークレーはやはり肌寒かった。サンフランシスコ湾に近いからであるという。当時並んでいた本屋さんや、怪しげなお土産店はなくなっていた。しかし日本食のレストランがあったので、夕方、出直してラーメンを食べに行った。思ったよりおいしかった。
帰りは同じルートで戻った。帰りの飛行機から見下ろしたレスブリッジの町は、相変わらずこじんまりと整っていた。そして僕には今ここが一番似合っているように思った。住めば都である。