2019年12月5日 第49号

 パリのセーヌ川のほとりでアコーディオンを弾く。それは田中さんの50年来の夢だった。

フランス暮らしを体験した青年時代

 田中宏さん(京都出身・ブリティッシュ・コロンビア州バーナビー市在住80歳)は元フレンチシェフである。パリへつながる職業人生は東京・皇居近くのパレスホテルに始まる。その料理長は日本のフランス料理界の巨匠・田中徳三郎氏だった。「本で知った田中徳三郎の元で働きたくて10回手紙を書きましてね。10回目に本人から直筆の手紙が届きました」そうして採用されたパレスホテルでフランス料理の基礎を身に付けた後、1966年26歳の時に氏の紹介でパリの5つ星レストラン、ホテルムーリスへ修行に出る。当時、画家のサルバドール・ダリがひとフロアを借り切っていたホテルである。「ダリの飼っていた犬にも、銀製の蓋の載ったフォワ・ド・ボー(仔牛のレバー)とかのご馳走が厨房から運ばれていました」その頃、厨房の熱源は石炭だった。「とにかく熱くてね。キッチンは真っ黒ですよ。でもピッカピカでない、そういうところからいい味が出るんではないかと思いますね」

 フランス語を学ぶ間もなく渡仏したが、さほど困らずに済んだのは調理法がほぼ同じだったから。また、カフェでの同年代の女性からの「ここ、座っていい?」に始まる会話も、同僚と一緒に飲みに行くのもさほど苦労がなかった。「若い時は言葉はいらないんですね」と当時を振り返る。

アコーディオン弾きの演奏 

 朝、職場に向かう道すがら流れてくる焼きたてのバゲッドの香り、ショーウインドウを拭く女性からの朝の挨拶、週末には着飾って街を華やかにする人たち―今もその鮮烈な印象が胸に残る。中でもパリの街角でアコーディオン弾きが奏でていたメロディー、映画『ドクトル・ジバゴ』の挿入曲『ラーラのテーマ』には吸い寄せられるように足を止めて聴き入った。「私はその曲が好きで好きで。楽器などやったことはなかったのに、その時からいつか必ず弾きたいと思っていました」

クスクスを連れて東京へ

 当時フランスで大人気だった料理がクスクスだ。「クスクスというと、フランス人はクレイジーになるんです」。そんなクスクスに田中さんも魅了された。5年間のフランス生活の後、東京に戻り、日本で最初のクスクス専門のレストランを出店。当時サントリー会長の佐治敬三氏の協賛を得ての開業だった。店は順調だったが、田中さんの体は東京のテンポに合わず、「思いつきと勢い」で1976年に家族でカナダへ飛び出した。そしてホテルバンクーバーで勤務した後、「賃金が3倍」という同業者からの誘いで、家族を養うために地方の作業現場のシェフに。BC州を点々とした後、リタイヤ生活に入った。

フランスとのコネクションを続けて

 田中さんの話には往年の洋画がよく登場する。フランスで映画の一場面のような世界をリアルに体感したことは大きな財産だ。バンクーバーでも付き合いがあるのはフランス系の人がほとんど。「(他国の出身者より)彼らが一番受け入れてくれる感じがするんです」ただ年代的に若い人が多く、最近は一緒に飲みにいくということはないという。「離婚してからは家族との接点はないですし、付き合いという点ではぱっとしないですよ。その代わり自由ですが」

 フランスには度々訪れている。かつては移住のための調査が目的だったが「フランスもバンクーバーと同じで、ものすごい勢いで住宅の値段が上がってる。今から医療プランを変更するのも大変。それにパリもすっかり変わってしまいました」。それでもマルセイユに近い町に2週間ほどアパートを借り、週末のファーマーズマーケットで新鮮なトマトなどを買い出しクスクスを作るのは小さな喜びになる。

アコーディオンを自力で習得

 長年の念願を叶えるべく、アコーディオンに着手したのは72歳の時。楽譜は読めないため、耳だけを頼りに鍵盤を探った。左手で演奏する和音のボタンも、メロディーにしっくり合うハーモニーを一つ一つ探り続けての練習だ。その努力の末、『ラーラのテーマ』はもちろん『ロシアから愛を込めて』など大好きな映画音楽を中心に曲を習得し、パリへ向かった。「ようやく2017年にセーヌ川にかかるノートルダム橋のたもとで夢が叶えられました。フランスの友人がたくさん人を連れてきてくれて、80人ほどの前で演奏しましてね」そう語る田中さんの声がひときわ明るい。

 その人前での演奏を通じて、自分の技術の未熟さも知り、今も自宅のコンドミニアムのパーティルームで練習に励む。そしてそのメロディーに足を止めた人たちとの間に会話が生まれている。田中さんを記者へ紹介してくれた人物もその一人だ。パリの情景が立ち上がる田中さんの音楽は、今、新しい出会いを導く力になっている。

(取材 平野香利)

 

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