2018年11月8日 第45号
日本に、「認知症の人と家族の会」という団体があります。日本の認知症の人や家族の支援の草分け的な存在で、京都にある本部のほか、全国各地に支部があります。先日、日本に一時帰国した際、この団体の本部にお邪魔しました。その繋がりで、「認知症フォーラム」というサイトに掲載されている動画を作成している方とお目にかかる機会がありました。その方から、アメリカに住んでいたあるご夫婦のビデオを紹介されました。インタビューを受けたこのご夫婦は、60年の歳月を過ごした、子供や孫たちも住むアメリカ合衆国ロサンゼルスを後に、日本に帰国しました。
日本に帰国する動機付けとなったのは、妻が旅先で迷子になったことです。何かがおかしいと感じた夫が、妻を病院に連れて行き、検査をすると、「認知症」が始まっていました。それが、そのビデオが撮影されるおよそ5年前。夫は、自分に決断する能力や体力があるうちに、新しい生活を始めることを決意しました。その時すでに、夫婦はともに80歳を過ぎており、残された時間を考えた時に浮かんだのは、母国、日本へ帰ることでした。妻の病気の療養には、日本のほうがいいと夫が判断したからです。日本での住まいとして選んだのは、サービス付き高齢者向け住宅でした。
日本に帰ってしばらく経ってから、 孫の卒業式に出席するためにアメリカに行きました。「認知症」だけでなく、「癌」も患っていた妻は病状が悪化し、アメリカから戻って1カ月後に入院。医師からは、余命3カ月から6カ月という宣告を受けました。 妻は、入院した時点で85歳、毎日2回妻を訪問する夫は87歳。この時点では、夫は、帰国を決めたことが間違っていたのではないかと戸惑っていました。孫の卒業式の時に撮った写真にも反応を示さない妻の記憶が、どこまで残っているのかもわかりません。目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた孫たちと別れてまで、日本に帰ってくる必要はなかったのではと、夫は自問自答します。
二人が日本に帰国することになったそもそものきっかけは、ロサンゼルスにあった「(旧)KEIRO」という、非営利団体が運営する日系人向けの老人ホームが売却されたことに端を発します。この施設は、有志が寄付を募って設立された、日系人を対象とした施設でした。売却されるまでは、日本語を話すスタッフが常駐する、日本語環境の老人ホームでした。この施設に夫妻で入居していましたが、売却された時点で、妻は「認知症」および「癌」と診断されており、いずれ周りの手助けなしには生活が成り立たなくなることは目に見えていました。引き続き、日本語を話すスタッフや日本食が提供されれば、問題はなかったはずです。しかし、人件費削減のため、日系人スタッフが減り、サービスが低下することを予想した夫は、妻への対応の質がお座なりにされることを懸念しました。いよいよ限界が来て、さらに歳を重ねた自分が、病気を抱える妻を連れて新しい場所を探すことができるかと考えた時、自分にその力があるうちに行動を起こすべきだと判断し、思い切って日本に帰国することを決めました。アメリカとの医療保険制度の違いもありますが、日本には介護保険制度があることが、帰国を決断した大きな理由です。60年ぶりに帰国した夫婦。日本の医療や丁寧に面倒を見てくれるサービスにすべてを託し、夫は、やはり帰ってきてよかったと思っています。
ここバンクーバー地域でも、長く住んだカナダを後に、日本に帰国した方がいると聞きます。「終の住処」をどこに求めるか。日本語で医療サービスが受けられることは、帰国の動機になり得ます。また、英語が堪能だった人でも、「認知症」が進行し、使える言語が、母語である日本語のみになることが十分に考えられます。
皆さんはどうしますか?
ガーリック康子 プロフィール
本職はフリーランスの翻訳/通訳者。校正者、ライター、日英チューターとしても活動。通訳は、主に医療および司法通訳。昨年より、認知症の正しい知識の普及・啓発活動を始める。認知症サポーター認定(日本) BC州アルツハイマー協会 サポートグループ・ファシリテーター認定