講演で最初に上映されたのは、福井テレビが制作したドキュメンタリー『ヘブンと呼ばれて』だ。リトアニアの領事代理、杉原氏の功績について、概略を整理するとともに、氏のビザに救われたユダヤ人たちが敦賀に逃れてくるまでを紹介するものだった。

ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで、行き場を失ったユダヤ人難民たちが、リトアニアの日本領事館に殺到した。これは、日本だけが、ユダヤ人を排斥しないという方針を発表していたためだ。日本の通過ビザがあれば、ホロコーストの嵐が吹き荒れるヨーロッパから脱出できる。ロシアから日本経由で米国やカナダ、オーストラリアなどへ逃れることができる。領事館に集まってきたユダヤ人たちは必死だった。

しかし、外務省では、行き先がはっきりしていない人、そして、十分なお金のない人にはビザを出さないとしていた。命からがら日本領事館にやってきたユダヤ人の多くは、この条件を満たしていなかったものの、杉原氏は人道を重視して、ビザ発給に踏み切った。有名な命のビザだ。氏が書いたビザは2000枚以上にのぼり、一枚のビザで家族全員が渡航できたことから、杉原氏は約6000人の命を救ったとされている。

ビザを得た人たちはシベリア鉄道でウラジオストクまで行き、日本海を渡り、敦賀にたどりついた。「ロシア領海を出た時、ユダヤ人たちが甲板で歌を歌っていた」(歌は現在のイスラエル国歌、希望という意味のハティクヴァだったという。)、「甲板で全員が手を振っていたのを覚えている」「全員にりんごが配られた」、「あさひ湯が無料で提供された」、「時計を持って換金に訪れた」などを、船の関係者や敦賀の人々は記憶している。

しかし、太平洋戦争に向かうにつれて、ユダヤ人たちは、日独伊三国同盟を締結していた日本を後にして米国などに渡っていった。

さて、「知られざるJTBの貢献」は、ユダヤ人が日本に渡るのに際して、現在のJTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローが支えていたという“秘話”についてだ。北出氏は国際観光振興会(現在の通称、日本政府観光局=JNTO)で勤務中に、JTB本社による『日本交通公社七十年史』に触れる機会を得た。

その中にJNTOでお世話になった、JTBから出向していた大迫辰雄氏の名前を見つけて驚く。ジャパン・ツーリスト・ビューローの職員だった大迫氏は、ユダヤ人渡航の斡旋に関わっていたのだ。

発端となるのは、1940年にあったJTBニューヨーク事務所への1本の電話だ。ナチス・ドイツの迫害を逃れるため、ユダヤ人らはモスクワからウラジオストクを経由して日本に渡ることを希望している。ウラジオストクと日本の間の移動を依頼したいという内容だった。

ドイツは日本の同盟国であったことから、NY事務所では東京本社に連絡。本社では喧々諤々の議論が繰り広げられたという。そして、当時、事実上トップの座にあった高久甚之助氏が、人道的見地から引き受けようと英断を下す。

もうひとつ、JTB、ビューローマンの心意気ともいえるエピソードがある。当時、ユダヤ人が日本に入国するには、次の渡航先への乗船券を持っていれば(ユダヤ人が持っていたのは通過ビザ)100ドル、なければ200ドルを所持していなければならなかった。入国に要した費用は、米国のユダヤ人協会がトーマスクックを通じて送金を行い、JTBが受領したのは765人分の18万3600円(約680万ドル)、現在の価値で5〜6億円にものぼった。

しかし、765人中、93人分、2万2320円(約83万ドル)は受け取られることはなかった。シベリア鉄道でロシアを横断中に、官憲に連れて行かれた人もいたためだ。この2万2320円分をJTBのNY事務所は誠実に返金したという。なんと太平洋戦争が始まる1ヶ月少し前のことだった。

「スギハラチルドレン探しの旅」も興味深かった。大迫氏は渡航の手伝いをしたユダヤ人7人の写真を残していた。写真には裏書があり、署名やメッセージがあった。北出氏は彼らの行方を追い、さらに杉原ビザを手にして米国に渡った人たちに会いに行くことを決心した。

7人は、俳優のシャルル・ボワイエ似の端正な顔の男性、ブルガリアのソフィアの写真館で撮影したであろう写真の女性、「私を思い出してください」「素敵な日本人へ」と感謝の言葉をポーランド語で残した女性など。講演会の出席者は、スライドで紹介された7人を見ながら、ヨーロッパを追われ、流浪の身となった人たちに思いを馳せた。

さて、こうして日本にたどりついたユダヤ人らは、北米やオーストラリアなどにさらに渡って行ったが、そのための資金や書類に問題があったことから、多くが敦賀から入国した後、かなりの期間、神戸に滞在した。

北出氏が不思議に思ったのは、敦賀には多数残っているユダヤ人についての目撃証言が、神戸には少ないことだ。しかし、調べているうちに、新聞記事ほかに、彼らが登場することが分かってきた。妹尾河童の『少年H』には、主人公Hの父親がテイラーで、強烈な異臭を放つ外套の修繕を頼まれる場面がある。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』も神戸に住むユダヤ人が描かれている。

「疵だらけの革のトランク重そうなユダヤの大人は冬服姿」「夏の朝近所の大きな洋館にがやがや見知らぬ外人の列」「暑い日を洗濯ものも干せないでなに食べてんのユダヤの人ら」

これは、神戸出身の歌人、山形裕子さんが、歌集『ぼっかぶり』で、市民の目線でユダヤ人の姿を詠んだものだ。

最後に杉原氏が生まれ育った岐阜県加茂郡八百津町が制作した氏の生い立ちから業績に関するアニメーションが上映された。

講演終了後、参加者に話を聞いた。

「裏話を伺うことができて、とても良かったです。妊娠していらっしゃった方の写真には、母として女性として、感銘を受けました(注 講演で、ナチスから逃れてきた、妊娠中の女性の写真が紹介された)。世界中でこういう機会が催されたらいいなと思います。最後の教育に役立つ児童向けのアニメ、分かり易くて良く仕上がっていましたね。一人でも多くの生徒にこの作品を識って欲しいです。」(コスモス・セミナー主宰 大河内南穂子さん)

「JTBさんがユダヤ人の逃避行に貢献していたなんて、存じ上げませんでしたし、渡せなかったお金を、律儀に返したというエピソードも、日本人として、なんだか嬉しくなりました。」(Akikoさん)

「杉原千畝さんのことはもちろん知っていましたが、北出さんの本のことはお恥ずかしい話、存じ上げませんでした。今日、聞いたお話のメモをたくさん取ったので、一人でも多くの方、次の世代へと伝えていきたいと思います。」(Kunikoさん)

 

北出 明氏 プロフィール

1944年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。1966年慶應義塾大学文学部仏文学科卒、国際観光振興機構(JNTO)に就職。2004年JNTO退職。その間、海外はジュネーブ、ダラス、ソウルに駐在。また、90年7月より93年4月まで京都案内所に単身赴任。現在はフリーランス・ライター。著書に『風雪の歌人』(講談社出版サービスセンター)、『釜山港物語』(社会評論社)『命のビザ、遥かなる旅路』(交通新聞社)など他多数。

 

(取材・文 西川桂子)

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