「すぐにでも戻りたい」現在も残る未練と迷い

「できれば日本に帰りたい。今からでも同じ会社で雇ってもらえるなら、もう一度働きたいね」
そうとつとつと切ない思いを語るのは、北パラナのロンドリーナ市内にある娘夫婦経営の美容室で、整体師として働く平野アントニオ定一さん(63、二世)だ。
1995年に訪日して愛知、岐阜で15年間働いた。アルミサッシや建材メーカーの工場でリフトを運転する仕事をする一方、「手に職を」と土日は京都の専門学校に通い、整体師の免許を取得した努力家だ。
帰伯したのは金融危機が始まった直後の2009年1月。失業したわけではなく、90歳の母親の面倒を見る必要があるという事情からだった。「日本にはできるだけ長く住みたかった」と、かみしめるように言う。
「治安が良く便利で、町がきれい。仕事が常にあって、給料も良かった」と、日本の良さを挙げはじめればきりがない。
デカセギ帰りの人の多さが目立つというロンドリーナ。平野さんの周囲には日本政府からの帰国支援で帰ってきたが再訪日を考えている人が少なくないという。平野さんも同地に滞在する必要がなくなれば、直ぐにでも日本に戻りたいとの気持ちが強いようだ。

 

「仕事は面白いけど、給料は少ないね」。天野ミウトン雅夫さん(62、二世)=サンパウロ市在住=はそう言いながらも誰に不満をぶつけるわけでもなく、ただ目を伏せる。1996年に訪日して2010年2月に帰伯したため、日本での生活は都合14年間にもなる。

 

当地では複数の職場を経て、現在はサンパウロ市内の企業に勤務する。今の職場では「日本に比べ年輩者に対する偏見が強い」とも感じている。「もう60過ぎているからね」と力なく笑みを浮かべた。
「日本の悪い点は」と聞くと、少し考えた後で「特に思いつかない」と言った。
群馬や広島に住んで職を転々とし、悪徳派遣業者に騙され借金を抱えたり工場で大けがをしたりと、困難は絶えなかったという天野さんだが、最終的な日本の印象は悪くなかったようだ。
むしろ日本での暮らしに適応し、生活が安定した後は子供に仕送りする余裕もできた。
金融危機後も日本語ができたために仕事に困らず、正社員として転職を決めていたが、妻の病気が引揚げの決断の大きな理由だった。
「妻が健康だったら、日本に住み続けたかもしれないね」とつぶやく。帰伯時には揃えてきた家財道具などを全て売った。「また行くとなると、最初からすべてやり直しになる」と及び腰だ。
ではブラジル定住に決めたのかと聞くと、「経済発展の可能性は高いかもしれないが、危険だし人のマナーも悪い」と祖国への印象はネガティブだ。
「では今後どうするのか」との問いに、「どうなるかわからないね」と言葉を濁した。「とにかく今やっていることに集中したい。日本がいいかブラジルがいいか、あまり考えすぎても意味がないし」と歯切れの悪い様子で視線をそらした。
戻るのか、定住するのか。この問いを抱えて日々迷っている帰伯者は、きっと数万人規模でいるに違いない。

日本の厚生労働省は2009年4月、経済危機で失業した在日伯人労働者を対象に帰国支援金制度を実施し、1万5千人以上が帰国したといわれる。原則として「3年間」まで同様の在留資格で再入国を認めないという条件付きだったが、今年の3月で政策実施から3年が経った。
本紙読者から「4月の時点で3年間なのか、それとも各人が帰国した日から数えて3年間が訪日禁止なのか」と数え方の解釈に関する問い合わせが複数寄せられ、在サンパウロ総領事館にも同様の問い合わせが頻繁にあったが、担当領事は「法務省と厚生労働省のスタンスが決まっておらず、指示が来ていない状態」と返答した。

金融危機で派遣会社廃業「日本式サービス広めたい」

以前から日本で貯めた資金を元手に、帰伯後に事業を始める人は多いが、軌道に乗らず断念して再訪日するケースも少なくなかった。2008年からの大量帰伯時代には、新しい種が芽吹いていないだろうか。

 

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北パラナのロンドリーナで美容室を営む、同州マウアー・ダ・セーラ出身の桜井豊さん(45、二世)。平野アントニオさんが働く美容室のオーナーだ。
桜井さんは1990年に訪日。最初は愛知県犬山市に住み、家具・物置メーカーの工場で働いた。7年後に同じ職場で、16歳で訪日した樹里さん(32、二世)と結婚し、2人の子供に恵まれた。
幼少時から日本語を話していた桜井さんは日常会話に不自由せず、日本人の友人が多かった。また、ブラジルの生活様式にもこだわることはなかった。
日本での経験は「良かった。仕事に対する考え方が違ってとても勉強になった」と頷く。職場では通訳もやったため上司との関係もよく、「働きやすい職場だった」と笑みをこぼす。
同市に15年住んだ後、滋賀県に転住して友人と派遣会社を設立した。2カ所事業所を持ち4年経営したが、2008年、リーマンショックの影響は避けられず、廃業となった。迷った末、「ここにいても仕方がない」と見切りをつけた。
帰伯後は、樹里さんがエステや化粧品など美容に関心が高かったことから、美容室を経営することに。昨年2月に開店し、免許を取得した樹里さんが美容師として働いている。美容室の経営状態は今のところ上々だ。
しかし、「やっぱり楽じゃない。軌道に乗るまでに3年はかかると思って頑張らないと」と表情は険しい。
従業員は7人で、同夫妻と平野さん、もう一人の美容師のほかは、すべて非日系人だ。
桜井さんは「言葉遣いや会話の内容など、日本のサービスは素晴らしい。それをこちらでやりたい」とこだわり、日本式の経営や教育方針を貫いている。
毎朝9時には店を開け、朝礼をするのが日課だ。「ブラジルではお客さんが先に来て後から従業員が出勤したりするが、ここではありえない」と切り捨てる。
と言いつつも、「厳しくしすぎるとすぐに辞めてしまう」と眉を曇らす。「どこまでやるかはいまだに試行錯誤」の毎日だ。
すでに開店時のメンバーは全員やめてしまった。「一人ひとりが意識すれば変わっていくはず。今からが勝負。毎日が勉強です」と方針を変えるつもりはない。
日本に帰ろうと思ったこともある。「うまく行かなくなったらすぐ日本に戻る人もいる。それでは中途半端になってしまう」と自らに言い聞かせるように言う。
「そうなれば、行ったり来たりの繰り返しになると思った」。日本滞在時も子供の教育面と仕事面で、常に「どっちつかず」と悩んでいたと明かす。
今は迷いを振り切ってここに根を張ろうとしている。「店も開いたし、波はあるがこちらで頑張りたい」。そう語る桜井さんの真剣な表情からは強い覚悟がうかがわれた。
まったく文化が異なる当地で日本の経験を活かして事業展開を図ることは単なる金儲けではなく、文化普及にも同時に取り組んでいるのに等しい。難しいに違いない。
しかし、大挙して帰伯した10万人のうち、もし1割が同じことを考えていたら、10年後のブラジル社会への影響は間違いなく大きなものになる。一つの時代の変わり目に居合わせているのかもしれない。

「母弟を呼び寄せたい」ワケありの父とイジメ

「私がこっちで頑張って受け入れ態勢をつくり、日本にいるお母さんと弟を早く迎えに行きたいんです」。2月初めにミナス・ジェライス州都ベロ・オリゾンテ市であった日本祭りのブースで、通訳ボランティアとして働いていた15歳の女の子Aさん(匿名希望、三世)は、切実な表情でそう言った。
記者が日本生まれだと分かると、「私も日本に住んでいたんです」と嬉しそうに身を乗り出し、両親に連れられて生後3カ月で日本に移り住み、埼玉、群馬、北海道などを転々とした身の上を語り始めた。
母と中学一年生の弟は神奈川県横須賀市におり、母は失業中で生活保護を受給している。二人とも帰伯を望んでいるものの、当地には家も仕事もないために、帰るに帰れない状況にある。
両親は6歳のときに離婚した。非日系人だという父のことは「あまり覚えていない」といい、さらに詳しく尋ねようとすると、「日本で何か悪いことをしたみたい。お父さんのことを聞こうとするとお母さんがいつも怒るから。…わたし何も知らないんです」。そう言って、うつむいた。
離婚後、母は派遣社員として日本の勤め先を転々とした。彼女はその都度、あちこちの小学校に転校した。同級生には「ブラジル人、気持ち悪い。自分の国に帰れ!」などの暴言を浴びせられ、嫌な思いを重ねた。
いじめられる状況が5年も続き、「ずっとブラジルに帰りたかったんです」。当時のことを思い出すだけで苦痛に表情をゆがめた。
日本では家庭でポルトガル語を話すことはなく、日本語で育った。「親は仕事ばかりで時間がなくて、会話すらもなかった」。Aさんは弟の世話をしたり、夕食を作ったり家事を手伝う日々だった。
苦労を重ねる母の姿を見るに見かねて「高校には行きたくない。働いて家計を支えたい」と申し出たが、母は「そこまでしなくてもいい」と言って、彼女を一人で帰伯させた。それが10年の11月だ。
現在Aさんはベロ・オリゾンテ市内に母方の祖父母らと住む。市内の学校に通い、懸命に勉強に励んでいる。
一年間、個人授業を受けるなどして必死に努力し、今年から高校に通うことが決まった。「無理だと思っていたから、本当に良かったーと思って」と満面の笑みを浮かべた。
Aさんは日本育ち、いわば準二世のような存在であり、日本から家族を呼び寄せるほどの足場を当地で築くのは簡単なことではないだろう。
通訳中、単語の意味を逆に記者に尋ねる場面もあった。「まだ苦労しています。ポルトガル語って難しいですよね」と苦笑いする。彼女は「自分にお金がかかっているのが気になる」と繰り返した。自分を置いてくれる祖父母にかかる負担が気になっている様子だ。
「少なくとも高校を卒業するまでは勉強に集中しなきゃ」と自らに言い聞かせるようにつぶやいた。念願の帰伯を果たした彼女だが、日本でも小学校程度の学歴しかなく、ポルトガル語もまだ不自由だ。
一歩間違えれば、日本語もポルトガル語も中途半端というセミリンガルの罠に落ちてもおかしくない。高学歴社会化しつつある当地で足場を築くには、相当の苦労が強いられるはずだ。
家族の先陣を切って帰伯したAさんが家族を日本に迎えに行き、一家を支えるほどの力が備わる日はいつのことだろう。むしろ、当地で苦労したあげく、再び母と弟のいる日本に戻ることもありうるのではないか。
彼女のような日本育ちの世代にとって、ブラジルはけっして懐かしいだけの場所ではない。日本で慣れ親しんだ常識や言葉が通じない未知の“祖国”なのだ。 (記事提供 ニッケイ新聞(サンパウロ市本社))

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