教授は「私がここに来る時はいつも天気が良くて気持ちがいい」と会場を和ませた。日本は多くの困難に直面しているが、それは裏を返せば改革の好機でもあると講演前に日本の現状を短く説明した。
今回は講演の内容を要約して紹介する。

日本経済の転換

私がいつも学生たちに言っているのは、6カ月や1年以内起こることを予測するのは難しいが、20年や30年という長いスパンならば予測は割と易しいということ。長期予測で重要なのは経済の基本的な傾向を捉えること。現在の日本経済の傾向は大きく二つ。一つは人口の減少、もう一つはアジア太平洋地域諸国との相互依存の拡大である。これらに注目すると日本経済の将来が見えてくる。
一つ目の人口問題では、データが明らかにしているのは16歳から64歳までの労働人口が減少しているということ。少子高齢化が原因で、これは実際には日本だけの問題ではない。先進国のみならず、ロシア、中国といった急成長国でも見られる世界的な問題となっている。
二つ目のアジア諸国との相互依存については、財務省貿易統計データから、日本の最大貿易相手国がこれまでのアメリカから東アジア諸国に代わっていることが分かる。
この二つの傾向からどのような青写真が見えてくるだろうか。

日本の失った10年とデフレ経済

20年前のバブル崩壊後、いわゆる金融危機は約10年で終了した。それが2000年代初め。それからの10年はデフレ経済と言われている。この間、日本で何が起こったのか、何が起こっているのかを理解することは非常に大きな意味を持つ。
まずはこの間の個人(家計)金融資産を世界比較してみる。所得に対する個人金融資産の割合は、アメリカ、イギリス、カナダが約300パーセント、ドイツ、フランスは200パーセント。日本は、10年前は300パーセントだった。これは平均的な一般世帯が年間所得の約3倍の金融資産を保有していることを意味する。これが現在は400パーセントに増えている。
これは10年間で日本人が資産を増やしたことを意味するが、一方で消費に回していないことの表れでもある。これがデフレ時期の特徴。将来への不安から、消費を控え貯蓄に回す傾向がある。日本経済がこの10年で弱くなった理由の一つがここにある。
興味深いのは、同様の傾向が企業でも見られること。過去10年のデータを見ると、企業がかなり蓄えを増やしていることに驚かされる。健全な産業では、設備投資をし、イノベーションを行うことで将来の利益向上につなげる。しかし日本のこの10年は、経費を抑え、若者の雇用も控え、会社の再構築に力を入れ、ただ蓄えてきた。これも現在日本経済が強くなれない理由の一つである。
このデフレ状況を打開するのに必要な経済政策には2タイプがある。一つは需要側からで、もう一つは供給側からの取り組み。需要側からの政策とは、金を使うことで経済を刺激するやり方。一方供給側は改革や自由化で経済を刺激する。貿易の自由化というのが日本にとってこれまで以上に重要な方法となってくる。

「重力モデル」

「重力モデル」とは約50年前に経済学者ティンバーゲン氏によって提唱された国際経済の相互作用モデル。二つの物質の距離が近ければ近いほど力は強く、物質の大きさが大きいほどやはり力は強くなる。
これを経済規模と国家間距離に転用。貿易相手国との距離が近ければ、貿易規模は大きくなる。二国間の経済が大きければ貿易量も大きくなる。例えば、日本と中国の貿易規模は日本とアメリカよりも大きくなる。それは二国間の距離が短いため。日本と中国の貿易は日本と韓国よりも大きくなる。それは距離的には韓国が近くても経済力で中国が上回るからである。
この考え方が日本にとって重要な意味を持つようになったのは最近のこと。それは中国やアジア圏の経済力が上がったことに関係する。
従来の貿易相手国、アメリカ、カナダ、欧州も重要な役割を果たしていたが、距離が問題だった。距離的に近いアジア圏経済が発展することで日本に経済的好機が生まれる可能性の意味は大きい。距離の近いところで強大な経済力を持つ国が現れれば、日本経済も成長するということになる。
例えば、日本とドイツという似通った産業構造で、日本はGDPに対する輸出の割合が14パーセントだったのに対し、ドイツは34パーセントだった。ドイツの周りには、イギリス、フランス、イタリアという経済大国が周りにあったが、当時日本にはなかった。
これを考えれば、「重力」が日本経済の転換に大きな力を与えてくれることが分かる。産業構造、企業構造、ビジネス環境、さらには人の流さえも大きく変える可能性がある。
産業では、これまでの自動車や電子機器といった製品組み立て型産業から中間財、資本財産業へと移行する。消費者レベルでは、アジアにおける中流階級所得層の増加がカギとなる。ここ10年間で8億人増加したとされるアジアの中流階級所得層。今後10年でさらに10億人増えると予測されている。これらの消費者に対するアジア独特のテイストを持った商品の売り上げに期待ができる。

東日本大震災による変化

日本はいまだ去年3月11日に起きた東日本大震災の復興段階で、その道のりは生易しいものではない。ただここでは、経済に特化して震災がもたらした意味を考えてみる。
やはり最も重要なのは、エネルギー産業の再構築が挙げられる。これはカナダと日本の関係にも影響する。
今回の震災で福島第一原発事故が日本の原発政策を大きく変えることになった。基本的には全廃方向で議論が進んでいるが、達成されるまでの迅速性には議論の余地が残る。しかし、原発に代わる代替エネルギーの確保は確実に必要。短期的には石油、天然ガス、石炭もこれに含まれる。長期的には太陽光や風力が考えられる。
効率的な転換を成功させるためには、劇的な改革が必要となる。日本は現在エネルギー政策の改革を進めている。エネルギー産業には多くの改革が予想される。
エネルギー確保のため石油や天然ガスに移行することによる温室効果ガス排出量の増加に伴う政策もそのひとつ。排出量を抑えるために政府が取れる劇薬的政策として「炭素税」がある。経済界からの反対はあるかもしれないが、この政策により誘発され、効率的エネルギーへの転換を速めることができ、それが経済に刺激をもたらすことにもなる。

アジアにおける貿易政策の変化

10年前、GDP上位30カ国でFTA(自由貿易協定)・EPA(経済連携協定)を結んでいない国・地域は4カ国だった。中国、韓国、台湾、そして日本。東アジア諸国はFTAについてはかなり遅れていた。しかしこの10年で様変わりした。韓国も日本も積極的に進めている。
最近では二国間だけでなく、地域間のFTAという形になりつつある。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)がその典型的な例。日本も例外ではなく熟慮する必要がある。
基本的にほとんどの日本人は貿易自由化の重要性を認識している。日本がTPPに参加して成功するかどうかは分からない。それはこれが政治問題だからでもある。しかし、TPP議論により日本が積極的にさまざまな形式のFTAに対しより迅速に対応していることは確実である。
それが、日本の欧州、カナダ、オーストラリアとのFTA・EPA交渉。過去を振り返るとこれらの国々とのFTAは難しかっただろう。しかし、現在ではどこまで突っ込んだ合意内容にするかという方向になっている。

日本とカナダの関係

両国は補足性が高い。二国間の持ちつ持たれつの関係において、補足性は非常に重要。日本のエネルギー転換期におけるエネルギーの安定供給もその一つ。これまで中東に頼りすぎていたが、これからはカナダ、アメリカ、オーストラリアとの関係を模索しなければならない。
日加の関係は、今後はエネルギー産業のみならず他の産業でも進展があるかもしれない。FTAに対する日本農家の嫌悪感は以前ほど強くない。FTAは日本の国内政治を刺激し、社会全体を改革する重要な役割となっている。

(取材 三島直美)

 

伊藤元重 氏プロフィール

東京大学大学院経済学研究科教授。経済学者。国際経済学と産業経済を中心に研究している。政府の各諮問機関で会長や委員を歴任。1996年4月に同職に就任、2006年2月からは総合研究開発機構(NIRA)の理事長も務めている。著書も多く、メディアでも活躍、分かり易い経済解説で定評がある。

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。