1953年“Atoms for Peace”「原子力平和利用」
1953年12月8日、アメリカのアイゼンハワー大統領は国連演説で“Atoms for Peace”「原子力平和利用」政策を表明した。この背景には、核実験に成功したソ連の動きから、もう原子力技術の拡散が避けられないという事態を認識したアメリカが、非核兵器保有国には「平和利用」に限定させ、既存核保有国で保有独占化を図ろうという目的が隠されていた。
原爆は1938年ドイツの化学物理学者オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーの二人がウラン核分裂実験に人類史上初めて成功したことに始まる。1945年7月16日アメリカが核実験に成功。その3週間後の8月6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下された。
それから10年も経たずに原子力は「平和利用」という大義名分の下、世界に拡散するきっかけを得た。アメリカは二つ目のパンドラの箱を開けた。
平和利用拡散のための宣伝工作
原子力に「平和」というお墨付きを与え、アメリカの原子力発電拡散計画は世界中で展開された。原爆を落とした日本も例外ではなかった。むしろそれが故により熱心に原発建設推進作戦を展開していった。
日本ではまず国民から「核への脅威」もしくは「核アレルギー」とでもいう感情を取り除く心理作戦を展開した。その背景には、広島、長崎での原爆被害だけでなく、1954年3月1日に起きたビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験による死の灰を浴びた第五福竜丸事件も影響していた。これを機に日本では大きな反核兵器実験運動が起こり、全国で3200万人、当時の総人口の約三分の一が署名、広島では100万人が署名し、大規模運動に発展した。
アメリカにとってはこれから原発推進という矢先の事件勃発。そのため、日本国内において心理作戦が展開され、原子力平和利用のための宣伝工作が推し進められた。これに協力したのが当時読売新聞社社主の正力松太郎氏であり、利用されたのが広島であり、被爆者だった。
55年初めから読売新聞や日本テレビを利用して「原子力平和利用」のすばらしさが宣伝された。正力氏は同年5月9日には「原子力援助100年計画」提唱者のジェネラル・ダイナミックス社社長ジョン・ホプキンス氏を代表とする「ホプキンス原子力使節団」を東京に招いた。
同年11月1日から12月12日まで読売新聞主催「原子力平和利用博覧会」が東京で開催された。これは、在日アメリカ大使館、国務省情報局(USIS)、中央情報局(CIA)が共同で準備した平和利用政策心理(洗脳)作戦の一部で、日本だけでなく世界各国でも展開された。
この博覧会は、この後、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台でも行われた。東京では約37万人(読売新聞発表)が訪れた。
広島では56年5月27日から6月17日まで開催された。会場は55年8月に完成したばかりの平和記念資料館と平和記念館(現在の平和記念資料館東館)。原爆資料を全て他の建物に一時移動し、平和利用資料で館内を埋め尽くした。広島では大阪よりも多い約11万人が来場。長崎からも被爆者が招待された。当時では珍しいカラーコピーのパンフレットなどで関心を引き、原発だけでなく、医療、農業、工業など様々な分野で利用できる「すばらしい技術」である原子力の平和利用を強調した。
広島と原発
「原子力平和利用」の宣伝工作は広島に対してはどこよりも早く始まっていた。アメリカでは広島に原発建設を推す声が起こっていた。1954年9月21日にはアメリカ原子力委員会のトーマス・マレー氏がアメリカの援助による原発を広島に建設することを勧めた。55年1月27日にはアメリカ下院の民主党員シドニー・イエーツ氏が広島市に日米合同の工業用発電炉を建設する緊急決議案を下院本会議に提出。本会議でも演説を行い、原子力による破壊を受けた広島こそ原子力の平和利用の恩恵を受ける資格があると語った。同氏はさらにアイゼンハワー大統領にも書簡を送り、熱心に広島原発建設を訴えている。
しかし、広島での原発建設は結局実現しなかった。公開文書によれば、アイゼンハワー大統領も、アメリカ国務省高官も、それはできないとはっきりと否定している。つまりこれは最初から、原爆被害者である被爆者、そして広島に「原子力平和利用」という考えを受け入れさせ、日本での核アレルギーの除去を目的とした作戦だった。そのために広島を利用した。それは「広島原発建設構想」は55年末にはすでに立ち消えになっていることから明らかである。
しかし、広島はその後も利用され続けた。「原子力平和利用博覧会」の平和記念館での開催もその一環だが、1958年4月1日から50日間開催された「広島復興大博覧会」でも再び平和利用が叫ばれた。31の展示館が広島市に設けられ、「原子力科学館」も設置された。ここでは、「博覧会」の時に広島にだけ特別に寄贈された当時の展示物を再び広島平和記念資料館に展示し、原爆資料と並列した。これにより「原爆=死滅、原子力=生命」というメッセージを強烈に発信することができた。こうして広島が原子力の平和利用を受け入れることを全国に広めることで、日本全体を賛成派に洗脳していった。
広島の反応
広島は、被爆者は、こうした宣伝活動にどのように反応していたか。実はほとんどが賛成していた。
54年に広島市長だった浜井信三氏は条件付きながら賛成を、55年から市長を務めた渡辺忠雄氏は積極的に賛成を表明した。両氏とも被爆者だった。政治家だけではない。子供たちの原爆体験記「原爆の子」の編集をした長田新氏も基本的には賛成を表明。地元紙の中国新聞でさえ55年1月29日付の社説で原子力導入を歓迎する内容を掲載している。さらに同年8月6日広島で行われた第一回原水爆禁止世界大会でも平和利用を支持した。
唯一原水爆禁止運動広島競技会の中心人物だった森瀧市郎氏(当時広島大学教授)だけが、広島の原爆被害者の治療と生活に対する援助を訴え反対を表明。原発が原爆に転用される懸念、原発による放射能物質の影響、戦争が起きた場合に目標となる危険性、さらには核廃棄物処理などの問題を反対の理由に挙げていた。
しかし、大勢の人々は賛成を表明。その意味ではアメリカの洗脳作戦は見事に成功したと言わざるを得ない。
日本の核政策
では何故ここまで日本で原発を推進したのだろうか?エネルギー問題だけが理由だろうか?
53年7月中曽根康弘(当時衆議院議員)はヘンリー・キッシンジャー米国務長官(当時助教授)が主宰するハーバード大学の夏季セミナーに参加。米軍関連施設を視察し、原子力研究の推進体制を学んでいる。
改進党の中曽根氏は、54年3月2日、第五福竜丸事件の翌日には、当時の保守党3党、自由党、改進党、日本自由党の共同で、昭和29年度(1954年)の追加予算として「原子炉築造のための基礎研究費および調査費」2億3500万円の原子力予算を含む科学技術振興費の予算修正案を提出。この時、改進党の小山倉之助議員は「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります」と提案について説明している。原子力平和利用のための予算提出で核兵器のことにすでに言及し、さらにこの修正案は衆議院で可決され、成立する。ここに日本での原発推進の本来の目的が見える。
これを機に日本の原発は、国内の宣伝工作も功を奏し、一気に建設が進むことになる。そして70年までには半年で核兵器を製造できるだけの技術を持つ。現在では再処理工場も所有している。核兵器維持能力を持っていることが日本の安全にとって重要であるという考え方が政府にはある。
原発と原爆
これまで反核は反核だけで、反原発は反原発だけで、問題提起をしてきた。反核を声高に訴える科学者や被爆者も、反原発については消極的だった。去年、福島で原発事故が起こり、放射性物質が放出されるという事態に反原発運動が盛んになったが、彼らが反核にどれほど関心があっただろうか。
しかし、こうして原発が日本に導入された歴史を見直してみると、違った角度から「原子力」が見えてくる。もう一度現実を見つめ、考え、「原子力」とは何かという原点に戻る必要がある。
「核兵器を使うことは人道に対する罪である」ということは、原発事故も無差別大量殺傷行為となりうるものである以上、「非意図的に犯された人道に対する罪である」ということができる。
そしてこれからは、核兵器反対運動と原発反対運動をどう統合していくのか、もう一度考え直す必要があるだろう。
(取材 三島直美)
田中利幸氏
西オーストラリア大学で博士号取得。
著書に「知られざる戦争犯罪」(大月書店)、「原発とヒロシマ『原子力平和利用』の真相」(岩波ブックレット)など