講演は、少女時代の衝撃的な出会い、辛い体験、「ヒロシマ」を背負っていくことの意味を語っていく。牧師であり、平和活動家であった父、谷本清さんとの関係が、近藤さんの現在の活動に大きな影響を与えていることもよくわかる。
時には涙を流し、笑いを交えながら、自らの体験を説いていく。67歳の小柄な体に似合わないボリュームと張りのある低音な声で紡がれていく体験談は、教会の説教を聞いているみたいに優しい。悲惨になりがちな被爆体験がこれだけ穏やかに心に染みわたっていくのは、彼女の人柄と経験が聞く人を惹きつけるからだろう。

講演から5日後、多忙なバンクーバー滞在中に、インタビューを快諾してもらった。ピース・フィロソフィー・センター代表の乗松聡子さんと共に、改めて話を聞いた。

自分の中の「ヒロシマ」

講演の中で、少女時代、流川教会を訪れる多くの若い女性の顔にひどい火傷の跡を見ることが怖かったというエピソードはその時代を広島で過ごした子供の本音だろう。優しいお姉さんたちをそんなひどい目に合わせたのが原爆だったと知り、「子供心に、エノラゲイに乗っていた人を探して、パンチしたり、蹴ったり、噛んだりしてやろう。爆弾を落とした人間は悪い奴で、自分は正しい人間だと、そう思っていた」と。
そして、リベンジの機会は意外にも早く訪れる。1955年5月、アメリカ人ジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏の計らいでアメリカの人気テレビ番組「This is Your Life」に父、谷本清さんが出演。清さんへのサプライズとして、テレビ局が妻サチさんと紘子さんら子供たちを番組に招待した。そこで出会ったのが、エノラゲイのパイロットだったロバート・ルイスさんだった。会ったらいつか仕返しをしてやろうと思っていた相手が目の前にいる。しかし、原爆を落とした広島を上空から見て「なんてことをしたんだ」との思いを語りながら、涙を流す彼の姿を見てすごくショックだった。悪人だと思っていた人の涙を見ながら、自分の中の悪に気づいた時、自分の考えが180度変わり、これまで見えていた景色が一変した。10歳の時だった。
人生の考え方を変える出会いもあれば、広島を捨てたくなる出来事もあった。それが、子供のころ経験したABCC‐Atomic Bomb Casualty Commission(原爆傷害調査委員会)による身体検査だった。窓のない部屋で自分だけにスポットライトの当たるステージで裸同然の格好で立たされる。ステージの向こうでは各国の言葉が飛び交っているが誰がいるのかわからない。「何も悪いことをしていないのに、なぜ、自分がこんな恥ずかしい目に会わなければならないのか」。神様に祈ってもその場から脱出する術はなく、この時、二度と広島のことは語らないと誓った。まだ中学生だった。
東京の高校を経て、アメリカの大学に入学。楽しい学生生活を送り、人生の伴侶となる人との結婚が決まりかけた時、またしても広島が顔を出した。婚約破棄。理由は被爆者だったからだ。悲しかった。でも同時に、この時初めて、少女時代優しくしてくれた被爆したお姉さんたちの悲しみが理解できた気がした。

ヒロシマを語り始めたきっかけ

近藤さんがヒロシマを語り始めてすでに35年も経つという。講演中に、「紘子、お前は爆心から1・1キロのところにいて、生後8カ月で生き延びたのだよ。大きくなったら、平和のために活動するのだよ」と両親に言われても、それを拒否していたと語った近藤さんの心を変えるきっかけになったのは、アメリカからの子供たちの団体だった。
広島市市長室から頼まれ、その団体に話をすることを引き受けた。「話しているうちに、この子供たちに同じ思いをさせたくないと強く思ったの」と言う。この団体はのちにチルドレン・アズ・ザ・ピースメーカーズと名称を変え、近藤さんのライフワークとなる。
同じ頃、東京からも修学旅行生が広島に多く訪れていた。彼らに原爆の話をするはずが、いつしか自分の体験談に。その時、会場には両親と夫がいた。初めて聞く彼女の思いに涙を流して聞いていたという。「そういうことをすることによって、強くなっていったのね。自分の過去に打ち勝っていったというか」。そんな風に今では笑って話している。

禎子さんとの接点

近藤さんは幟町小学校出身。佐々木禎子さんと同じ小学校だ。年齢は佐々木さんが2歳ほど年上だが、近藤さんが小学校に通っている時は、もう佐々木さんは学校にいなかったそうだ。ただ、学校で担任の先生から聞いた佐々木さんの話や原爆の子の像の募金活動に参加し、除幕式にも参加したことは覚えている。
ところが、最近になって、実は接点があることを知った。どうやら禎子さんは流川教会の幼稚園に来ていたようだという。「そしたら、私も、もしかしたら一緒に遊んだのかなって思って。私はそこの子だからいつもウロウロしていたし」。60年以上も経ってこんな話と遭遇するとは不思議な縁。バンクーバー滞在最終日には劇団文化座「千羽鶴」公演を観劇する。

ピース・フィロソフィー・センターとの出会い

近藤さんと乗松さんの出会いは2006年。初めて近藤さんの話を聞いた時、乗松さんは「自分の中でガラガラガラって崩れるものがあった」と話す。10歳の少女がいきなり目の前で復讐の相手に出会い、どっちが悪で、どっちが善か、価値観をひっくり返される衝撃。「私が紘子さんから得たものっていうのは、まず自分を変えること」。世の中の悪を正そうという気持ちは大事だが、そこにはどこか独善的なエゴが含まれている。自分がその悪にどう加担しているのかを考え、自分がまず変わることから始まるのではないかと気づいたという。
乗松さんは2007年の同センター発足から活動の一つとして、毎年8月、カナダの子供たちを連れて広島、長崎、京都を訪問している。その活動に近藤さんも特別講師として参加している。
「紘子さんの話は、広島を通したパーソナルジャーニーって言う感じ。広島はあくまでも近藤紘子という人間の窓口で、中身はもっともっと大きい」。だから、聞いている人が彼女の話に引き込まれていく。彼女の魅力をそう語った。

「私が生きている間、完全になくしてほしい」

年間講演数は数えていないからわからないと笑う。今回の2週間のバンクーバー滞在では、29日の講演以外にも、ビクトリア大学、ランガラカレッジ、シアトルのワシントン大学で講演し、さらに地元小学校も訪問し、小さな集まりも入れると7、8回は講演するという。シアトルではテレビ出演もこなす。海外は講演が短期集中するというが、それでも年間にかなりの数をこなすだろう。
それは核兵器を「私が生きている間、完全になくしてほしい」と強く思っているからだ。核戦争はどんなことがあってもやってはならない。これが彼女の思いだ。
普段の近藤さんはとても明るく、その笑顔は周りの人に安心感を与える。しかし、彼女がヒロシマを語る時、いつも涙がこぼれる。
原爆投下から66年。核兵器の数は増え続け、世界は核で溢れている。「どんなことがあっても戦争はいけない。核兵器はこの世から全部なくなってほしい」。そう願い続けて講演を続けている。政府を動かすことは難しい。でも、市民が団結すればできないことはないと語る。それは父親からの教えでもあった。一人一人が今、改めて核について考える時が来ているのかもしれない。
(取材 三島直美)

 

近藤紘子(こうこ)さん プロフィール
1944年11月20日広島生まれ。国内外で講演活動を行う他、日本で行き場を失った子供を海外に養子として紹介する「国際養子縁組」を続けている。「財団法人チルドレン・アズ・ザ・ピースメーカーズ」の国際関係相談役も務めていた。著書に「ヒロシマ、60年の記憶」(徳間文庫)がある。

 

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