2018年5月31日 第22号

宇治の水、大地、風とともに 美味、変わらず858年 そして今…

京都の南東部、醍醐山地を背景に、宇治川の豊かな水の流れと土壌が、おいしい茶葉を育てる絶好の地。宇治は、銘茶の里として知られる。ここ宇治川に架かる宇治橋のたもとで1160年(永暦元年)に創業した茶屋「通圓」は、現在まで858年間、変わることなく道行く人に一服の茶を振るまってきた。その長い商いの道程は「でしゃばらず、背伸びせず、ぼちぼちやっていくこと」が信条という。また、 “一子相伝”の家系を頑なに守ってきた。 今年の春には,23代目当主通円亮太郎さんが旭日単光章を受章した。 そして今、長女の通円悠花さんが1992年にカナダへ留学したことで、新芽が芽吹き出した。

 

現在の老舗茶屋「通圓」

 

*資料によれば、1160年の創業は茶類製造・販売業の中で、通圓は日本最古の老舗ですね。その超老舗茶屋「通圓」の長女ともなれば、子供のころから重圧も相当なものでしょうね。

悠花さん: 私が10歳のときに弟が生まれる前までは、「ひとり娘で跡取り」として、今でいう“過保護”そのものでした。ちょっと走っても「危ない!」犬に近づいても「噛まれる〜!」と大変だったことをおぼえています。また、店のまわりは住宅街でもないですし、近所に子供もいなく、うちの店(兼自宅)にはリカちゃん人形もなく、お店のほんまもんの急須や茶道具でおままごとをしていました。子供らしい遊びも知りませんでした。もちろん、当時はそれほどの違和感もなく、当たり前のこととして、曾祖母、祖母、母の3人の女性に育てられました。その当時のことで今でもはっきりおぼえていることが、よそのお家へお呼ばれされて行ったとき、ジュースやカルピスをごちそうになったことですね。うちではお茶しか飲んだことはありませんでしたから、もうびっくりですよ。

 弟(通円祐介さん・現当主)が生まれてからは、重荷を下ろすことを許された感じで、糸の切れた凧の感じでした。事あるごとに、通圓の歴史を聞きながら育ちましたし、さまざまな何百年も前の物が身の回りにあり、お茶の香りに包まれていました。学校へ行くようになって、教科書の歴史上の人物の名前の多くが、我が家にゆかりの人であったことに驚きましたね。

 

*連綿と続いてきた「一子相伝」の家系の跡取りの存在というのは、映画やドラマでしか見たことがありませんが…。

悠花さん: 昭和のはじめごろの代までは、ほんとうに徹底していたようです。一人の子供が家業を継いで、他の子供は、外へ出て別の人生を歩む。親戚づきあいもしない。だから、私の知らない人から、「うちのおばあちゃんは、通圓の出」とか聞かされ、はじめて親戚の人だとわかるようなこともありました。もちろん男系優先ですけど、父の前の代は、ひとり娘だったのでお婿さんが継いでいました。私も弟が生まれる前までは、お婿さんを迎えて跡取りになるよう育てられていたわけです。この一子相伝は、家系を、店を絶やさずに続けるためのことなのです。よく、世間では「うちが元祖だ、本家だ」と揉めごとがありますが、それを避けるための代々からの知恵なのでしょうね。

 

*情に流されず、自らを律する強さが、通圓を守ってきた…。

悠花さん: 商いの上でも、とにかく手を広げようとはしませんでした。通圓の店を増やすとか、大手百貨店に出店するとか、名前を広げようとはしてきませんでした。ペットボトル茶の出だしのころには、よく大手の飲料メーカーさんからの打診もありましたが、自らの手の届く範囲以外には決して出ようとしませんでした。まわりのお茶屋さんでは、ペットボトル茶を出し、有名になり大成功されたところもあります。そんななかでも、よそはよそ。うちはうち。うちは店に出て、まず神棚にお茶をあげて、店を開けて、お客さんに淹れたてのおいしいお茶を出す…の繰り返しを800年以上ひたすら続けてきただけです。通圓の味を、そしてお客さんにおいしいお茶を楽しんでいただくことを、第一に考えてきました。「今が折り返し地点やと思い、あと800年、通圓のお茶をお出しするにはどうしたらよいのかを考えなさい」と父はよくいいました。

 

*まさに修行僧にも似た自らの律し方ですね。長い歴史の中には、大きなチャンスや気持ちを揺さぶられることもたくさんあったでしょうが、ブレることなく、貫き通してこられたのですね。 そんななか、長女とはいえ、バンクーバーでビジネスをはじめられた。そのきっかけは…?

悠花さん: カナダへ初めてきたのは、1990年。宇治市とBC州カムループス市が姉妹都市の調印をするために市長や父について来たときでした。「海外留学したいのなら、ここやったらよい」と父が許してくれ、その2年後、初めて家を離れて留学生活を始めました。ホームステイでしたが、体調を崩し、肌もひどく荒れ、これはどうしたことかと悩んでいるうちに、ふと気づいたのが、飲み物が牛乳やPOP飲料ばかりで、お茶をぜんぜん飲んでいなかったことでした。さっそく、実家から送ってもらい飲んでいるうち、いつの間にか体調も肌荒れも治っていました。当時、カムループスのスーパーなどではちゃんとした緑茶は売ってなく、「うん!もしかしたら?」というビジネスヒントのようなひらめきを感じました。2年間の留学生活を終え、宇治へ帰り、通圓で働いているとき、観光で来た外国の人にお茶を勧めるうち、「おいしい!」と感激されるたびに、あのカムループスでのひらめきがどんどん膨らみ「海外に本物の緑茶を」と決意を固めました。30歳になる前、カナダへ移民申請をし、バンクーバーで会社を立ち上げました。スタート間もなく主人と知り合い、結婚。そして出産。ベビーカーに子供とご注文いただいた品を乗せて配達していました。少しずつ認知されるようになってきたとき、大手のコーヒーチェーンから、「年間数トンの茶葉を買いたい」というオファーが飛び込んできました。さっそく、日本へ連絡。わかっていたことでしたけれど、父は「すぐ断りなさい。数トン単位で仕入れて売るというのは、大きなリスクを伴う。そんなことで、何代にもわたってうちのお茶を飲んでくださっているお客さまに迷惑がかかったらあかんやろ。そんな話にとびついたらあかん!」とケンもホロロ。普通でしたら「ヤッター!」というところでしょうけどね。

 

*日本でのペットボトル茶ブーム始まりのときと同じですね。

悠花さん: そうですね。その後、日本に住むアメリカ人の方が通圓に来られ「ぜひ、海外の友人たちにも、この歴史とおいしさを教えたい」ということから、父から彼と交渉するように頼まれてバンクーバーの私のところとスカイプでつなぎ、彼がアメリカなどに日本茶のおいしさを届けるシステムを構築しました。世にオンラインショップが出始めたころでした。ぼちぼちですけど彼を通じて徐々に通圓ファンができ、世界中から宇治の通圓までお茶を飲みに来られるようになりました。

 

*日本食の世界的な人気に伴い、茶葉の輸出も快調のようですね。また、緑茶の健康効果についての研究が日本国内外で進み、長寿につながるという研究結果なども発表されています。 日本への観光客も増加の一途のようですし、日本茶を口にする人も多くなるでしょうね。人気の観光地としては、京都は定番でしょうが、隣接する宇治も穴場的スポットですね。

悠花さん: 宇治は、もともと貴族の別荘地ですし、落ち着いた雰囲気はありますね。すぐ近くには、世界文化遺産、10円玉でお馴染みの平等院があります。ぜひ、通圓に寄って、一服していただきたいものですね。

 

*私も帰国したときは、ぜひ茶屋通圓の軒先に腰を下ろし、宇治橋を渡る人を眺めながら一服したいと思っています。最後になりましたが、お父上、通円亮太郎さんが、この春の旭日単光章を受章されたこと、誠におめでとうございます。                            

(取材 笹川守)

 

やわらかな京都弁もすてきでした。通円悠花さん

 

一休禅師作の初代通圓木造

 

一服のお茶を振るまう現当主の通円祐介さん(左)

 

千利休作の釣瓶。宇治川から秀吉公のための水を汲むのに使用されていたもの

 

(左から)祖母、お母さん、曾祖母に抱かれる悠花さん。雑誌に紹介された「老舗女将3代」の写真

 

お父さんの通円亮太郎さんと仲良し自撮り写真

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。