15歳で始めた柔道
スティーブストン・コミュニティセンターに隣接するマーシャル・アーツ・センター。この中にスティーブストン柔道クラブの道場がある。「嘉納治五郎が1932年、1936年、1938年と3回、ここを訪れているんですよ」と小嶋氏。嘉納治五郎とは、講道館柔道の創始者で、1938年(昭和13)、エジプトのカイロで開かれたIOC総会からの帰国途上この道場を訪れ、シアトルから乗った氷川丸の船内で亡くなった。そんなことからこの道場は、嘉納氏が最後に訪れた記念すべき場所でもあるのだ。
第二時世界大戦が終わり、強制移動先からスティーブストンに戻ってきた日系人の間で、柔道クラブ再開の動きが始まったのは1953年。この年、15歳の小嶋氏は両親の勧めで約80人とともに柔道を始めた。稽古着は米袋を切って作ったズボン。おがくずの上にキャンバス地を敷いての稽古だった。畳は2年後、シアトルへ行って購入した。めきめきと上達した小嶋氏は3年後、指導が出来るまで上達した。

国際柔道連盟の審判長
1957年にスティーブストン・コミュニティセンターがオープン。1971年にマーシャル・アーツ・センターが建てられ、その2年後に和歌山市とスティーブストンが姉妹都市提携を結んだ。「日本人と白人が一緒になったのはマーシャル・アーツ・センターが出来てからですね。スティーブストンは、日本人と白人がうまくいっている町の代表だと思いますよ」
スティーブストン柔道クラブでは、定期的に日本から指導者を招聘してきた。1957年と1965年に講道館から、1972年に東海大学からそれぞれ師範が半年滞在して指導にあたった。東海大学柔道部とスティーブストン柔道部が姉妹道場となったのはこれがきっかけだった。毎年東海大学から柔道部員が来て、稽古や親善試合を行う。今年は3年生が45人来る予定だ。早稲田、慶応、筑波大学柔道部とも交流があり、学生の世話をしている。
1974年に国際柔道連盟の審判員に選ばれ、6回のオリンピックに参加。アトランタとシドニー・オリンピックでは審判理事を務めたが、特にシドニーでは、フランスのダビド・ドゥイエ選手と篠原信一選手が対戦した際、難しい審判に直面した。結局デュイエの優勢勝ちとなり、試合後、山下泰裕選手団監督および日本選手一同が猛抗議したが、判定は覆らなかった。国際柔道連盟には3000通もの抗議メールが殺到。「僕のところにもメールが1000通届きましたよ」
小嶋氏はカナダ柔道連盟では20年間副会長を務めたあと、1988年から1994年まで会長を歴任。この間世界選手権カナダ開催誘致に尽くし、1993年の世界選手権はオンタリオ州のハミルトン市で開かれた。

2010年五輪でのサポート
柔道以外でも日本とカナダの橋渡し役としてボランティア活動に尽くしてきた。時間と労力、費用を伴うボランティア活動だが「僕にとって、いいチャンスでしたよ」と話す。
2009年、天皇皇后両陛下のご訪問の際には、スケート施設『リッチモンド・オーバル』を見学されるにあたり、リッチモンド在住の日系人を建物前の広場に招待するための段取りを手配した。2010年のバンクーバー五輪では、その2年前から日本スピードスケート連盟のサポートのために奮闘。開催9カ月前にオーバルで練習を開始する選手のためのホテル予約やスケジュールの調整を行った。期間中は選手団の歓迎パーティーや、閉会後に日本語学校で生徒たちに話をしてもらうよう取り計らった。この労力が認められ、閉会後に日本へ行った小嶋氏は日本選手団団長を務めた橋本聖子氏から電話を受け、オリンピック参加者のレセプションに出席。この席で橋本氏から感謝状を受け取った。

漁村、女川を支援
東日本大震災直後、和歌山市役所に電話をし、スティーブストンと同じ様な漁村があるか尋ねた。これが女川町支援の始まりとなった。
女川町には1万人強の人が住んでいたが、今回の地震と津波で町の半分が崩壊。町からの必需品リストにはライフジャケットがあった。推定すると約25万ドルが必要と知った小嶋氏は、さっそくファンドレージングを始めた。スティーブストン・コミュニティ・センターを拠点とした1キロウォークは、当初1万ドルを目標としていたが、4時間で8万ドルが集まった。募金額合計はその後約14万ドルにも上った。
ライフジャケットは和歌山市で調達し、スティーブストン・ロータリークラブとスティーブストン・コミュニティ・センターの名前を入れ700着を用意。昨年秋に訪日した小嶋氏が贈呈のために中学校を訪ねると、生徒が合唱して迎えてくれた。女川町にある小・中学校7校は山の上に建っているため、登校していなかった11人を除き生徒は無事だったが、津波の犠牲になった保護者も多い。「生徒の顔を見たら、泣いてしまいました」と話す。

日本で講演
叙勲の知らせは日本で受けた。今回の6週間の訪日では女川町支援のほか、和歌山市の精華学園高校和歌山学習センターと同市の城東中学校で『スティーブストンと日本人の歴史』をテーマに講演。城東中は1980年にリッチモンドのロンドン中と姉妹校提携し、小嶋氏は和歌山から来る中学生の受け入れを支援している。
日本の学校や大学で、和歌山からスティーブストンへ移民した日系人の話をする小嶋氏には、ある思いがある。日本へ行く機会の多い小嶋氏は、今の日本人の子どものマナーの悪さにびっくりしているという。電車に乗ると優先席に若い人が平気で座っている。車内で化粧をしたり、大きな声で携帯でしゃべっている人もいる。柔道の世界選手権に、日本人選手が髪を真っ赤に染めて来て問題になったこともある。
「一世たちは何も持たずに日本からカナダに渡り、戦争ですべてを失い、BC州に戻ってきてまた無から始めました。漁業ライセンスを取られても文句を言わず、百姓や大工をしながら一生懸命働きました。そこには日本人の負けん気、プライド、尊敬やマナーがあったのです」と強調する。
審判に決まった際、柔道の師である酒井米一氏から「自分のためにするなら辞めたほうがいい。みんなのためにするなら応援する」と言われた。「自分が受けた恩をいつか返さないといけない」と言われた言葉を胸に、今後も若い人たちへのメッセージを伝えていきたいという。
(取材 ルイーズ阿久沢)

 

ジム(譲)小嶋氏(ジム・ゆずる・こじま):

1938年(昭和13)、スティーブストン生まれ。7人兄弟の長男。15歳で柔道を始め、アトランタやシドニーのオリンピックで国際柔道連盟の審判理事長を歴任。1988年から1994年までカナダ柔道連盟の会長を務めた。リッチモンド市姉妹都市委員会副会長。1983年オーダー・オブ・カナダ(カナダ勲章)叙勲。2011年『旭日小綬章』叙勲。前妻との間に息子さんが2人、再婚した美智子夫人にお子さんが3人。全部で9人の孫がいる。リッチモンド在住。

 

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