2017年11月9日 第45号

日本語が話せる医師として、48年間にわたりバンクーバー在住の日系人に「ドクター堀井」として慕われてきた堀井昭氏。10月23日、ブリティッシュ・コロンビア州、リルエット町の宮崎ハウス(*参照)で堀井氏の講演会が行われた。

リルエットはウィスラーから北東に約130キロのところにあり、そこからさらに東に向かったところが東リルエットで、堀井氏や野球チーム『朝日軍』の上西ケイ氏らが住んでいた日系人収容地区があった場所である。

現在、『East Lillooet Memorial』をはじめとする日系人の体験を記念するプロジェクトがリルエット近辺3カ所で行われている。今回、このプロジェクトの一環でもある、長年念願していたメモリアルガーデンの完成にあたって、堀井氏はプロジェクトの発起人・鹿毛真理子氏によりリルエットに招かれた。メモリアルガーデンが無事完成されたのを見届けた堀井氏は、リルエットの数カ所で講演会を行い、自らの体験を語った。

講演会には約45名の住民が参加し、堀井氏の興味深い話に皆が耳を傾けた。

 

堀井氏。リルエットの山を背景に

 

第二次世界大戦と強制移動

 堀井氏の両親は和歌山県出身で、1920年にバンクーバー市に移住し、当時の日本人街(パウエルストリート周辺)に在住、漁師として生活を営んでいた。

 堀井氏はバンクーバーで誕生した日系二世で、第二次世界大戦時と、その前後に人種差別を体験した日系カナダ人の一人である。2007年に医師を引退したあと、カナダ各地で、カナダ人や日本人、戦争を体験したことのない子どもたち、その他数多くの人々に当時の体験をシェアしている。

 1939年に始まった第二次世界大戦がアジア太平洋地域に拡大し、日本とカナダが交戦状態になると、BC州沿岸地域に居住していた約2万2千人の日系カナダ人市民や日本人移住者は、国籍に関係なくBC州内陸部などへ強制移動された。その上、財産を没収され、「解放の暁には財産も金銭も残らず返す」というカナダ政府の公約は破られ、全てオークションにて売却された。

 

リルエットでの暮らし

 堀井氏はカナダで生まれたにもかかわらず、強制移動により1942年、9歳の時に、家族と共にバンクーバーから東リルエットへの移動を余儀なくされた。そこには電気も飲み水もなく、不自由で苦難に満ちた生活が始まった。

 東リルエット地域は、日系人の移動と収容を監督する政府機関であるBC州保安委員会から指定された、生活費用を自己負担すれば家族単位の居住を認められるという『自活地域』の一つだった。

 政府から家は用意されず、自分たちの貯金で材料を買い、小さな一部屋の家を建てた。家の壁は薄く、隙間だらけで、そこでの冬の寒さは今となっては想像を絶するほどであった。水を町まで汲みに行かなければならず、木を伐採して薪を作り、火を起こした。明かりは小さなランプで補った。

 堀井氏の父親は東リルエットに移動するまでは漁師をしていた。ところが政府から船も没収されて漁師の仕事ができなくなったため、第二次世界大戦前に農業を営んでいた日系カナダ人と共にトマトの栽培を始めた。そのうち商売として繁盛するようになり、トマト缶工場を建設するまでに至った。それに加え、堀井氏自身も休む暇なくアルバイトをし、稼いだお金は全て家族の生活費に充てていた。そのおかげでか、バンクーバーに戻るまでの9年間を生き延びることができた。

 苦しかった生活も、良い方向に向かってはいったが、もちろん悲しい出来事もあった。4歳の弟が脳膜炎にかかり他界した。当時は田舎であったリルエット地域には医者がいなかったので、他の地域まで連れて行ったが、そこでは必要な治療が受けられなかった。弟の病気は大きな病院でしか治すことができなかったのだ。もしこの時、家族が住んでいたのがバンクーバーだったら、彼は今なお生きているかもしれない。

 

終結後も続いた 人種差別と訴訟

 1945年に第二次世界大戦が終結したが、その後も4年間にわたり人種差別は継続され、強制移動させられた市民は解放されなかった。解放後も許可書なしでは決められた地域にしか行けず、本当の自由は得られなかった。堀井氏は許可書を持っていたが、見た目が日本人であったために、繰り返し許可書を確認された。

 そういった辛い時期を乗り越えてブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)医学部を卒業した堀井氏は、10年前に引退するまでバンクーバーで医師として働いた。

 1988年9月22日、カナダ政府はこの移動、収容の事実を日系カナダ人への不法な措置と認識し、正式に謝罪した。そして、不法な措置を受けて生存する日系カナダ人に対しての補償を認めた。

 現在、カナダには様々な国の人々が住んでいるが、これらの事実が次の世代に伝えられたからこそ、人種差別や社会的不正が克服の方向に向かったのかもしれない。しかしながら、いつの日か、この事実が忘れられ、再び人種差別が再来することがないようにするためにも、堀井氏の人生体験を教訓とし、多様性、多文化性、平等性を取り入れた社会が保たれていくよう推進したい。

 

*『宮崎ハウス』について

 『宮崎ハウス協会』の創設者で元会長の鹿毛真理子氏によると、宮崎ハウスは1945年ごろから約38年間にわたって医師の宮崎政次郎氏(1899〜1984)が住んでいた邸宅で、入り口近くの一室が診療所として使われていた。宮崎医師は村周辺地域にも気軽に往診し、診療費や薬代を支払えない患者にも差別なく治療を施す医師として、住民から親しまれ、尊敬されていた。宮崎医師の寛容精神と熱意を伴うカナダ社会への貢献は、1977年のカナダ勲章授与によっても認められている。

 健康上の理由から1983年にカムループスに転移。その際に宮崎医師は、この広大な芝生の庭を含む邸宅をリルエットの村に寄贈した。これが宮崎ハウスの由来である。宮崎ハウスは現在、リルエットの文化遺産として保存されている。

(文 村田実紗/写真撮影・協力 鹿毛真理子氏)

 

堀井昭氏略歴
1931年10月6日 バンクーバー市で生まれる
1936年〜1940年 バンクーバー市のLoad Strathcona Elementary Schoolとアレキサンダー日本語学校に通う
1949年 東リルエットのLillooet High Schoolを卒業
1949年 UBCに入学するが、1年後に3年間、家業である漁師の仕事を手伝うために休学。その後UBCに戻り、博士号、医師免許を修得
1960年〜2007年 48年間にわたり、バンクーバーでファミリー・ドクターとして活躍
2016年 日系コミュニティへの多大な貢献により『日系コミュニティーアワード』が授与される

 

宮崎ハウスの講演会で

 

堀井氏の講演会が行われた宮崎ハウス

 

堀井氏は、リルエットのCayoosh Elementary Schoolでも学校の生徒を対象に講演会を行った。10月23日、同校図書館にて

 

堀井氏のハイスクール時代のクラスメイト、ジョー・ヒューレイ氏の家族の女性も講演会に出席した。当時の思い出にまつわる話題はつきない

 

堀井氏(左)と『East Lillooet Memorial』 発起人の鹿毛氏

 

 

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