2017年8月3日 第31号

9月2日〜4日、バンクーバーで台湾フェスティバル(Taiwan FEST)が開催される。音楽、美術作品、食、ドキュメンタリーなどを通じて台湾文化を紹介するものだ。今年は「Kanpai, Japan!」というタイトルで、日本と台湾とのつながりを意識した内容となっている。イベント開催中、台湾出身の医師チャールズ・ヤン氏の人生をモデルにした書籍「Shadows of the Crimson Sun」(著者:ジュリア・リン氏)の出版発表が行われる。台湾、満州、アメリカ、カナダと移り住みながら自身のアイデンティティーを見つめてきたヤン氏に、これまでの人生を振り返ってもらった。

 

 

チャールズ・ヤン氏(写真 Tracy Jean Wong)

 

満州で日本人として過ごす

 私は1932年に台湾で生まれました。2歳の時父母に連れられて、中国の東北にある満州に移りました。日本による新しい国、満州国が1932年の私が生まれる2日前に成立していました。父は、日本に一年間留学し明治大学の法科で勉強しました。しかし、法科は台湾人にとっては将来性がないと父は考え、満州国の南満医科大学という学校に通いました。2歳で離れた台湾の印象は全然残ってないです。満州内ではあちこちに引っ越しし、最後は鉄嶺(てつれい)というところに住んでいました。父は最初のうち、満州国政府の衛生課長などを務めましたが、鉄嶺で開業したんです。あの当時、周りには他に台湾人がいたという記憶がありません。日本人の住む住宅地に住み、日本人が通う小学校に通っていました。もう70年前の話で、日本語も使わなくなりあまりできなくなってきてしまいました。

 第二次世界大戦終戦の時はびっくりしました。大日本帝国が負けるということの予感がなかったんです。日本が降参する前、広島と長崎に原爆が落とされました。降参の意思があることを中立国であったソ連に伝えたところ、日本とソ連には不可侵条約が結ばれていたにもかかわらず、ソ連は満州に侵略を始めたんです。日本からは北満開拓団としてたくさんの人たちが来ていました。ソ連軍が来ても関東軍は抵抗できない。ソ連人のやり方はフェアーとはいえないですよね。それだけでなく約60万人もの関東軍兵士などをシベリアに抑留しました。世界の捕虜の条約に完全に違反していますよね。

 私は外地人としての日本人だったんですが、終戦を境に日本人ではなくなりました。急に日本人ではなくなって自分は何人なのかという、いわゆるアイデンティティーの問題にぶつかりました。戦後、満州から台湾に行きましたが、「台湾に帰る」というのには語弊があります。自分は台湾にほとんど住んでいなかったのですから。その頃、言葉も日本語しかわからなかったので、すごく苦労しましたよ。(1949年に)中国の内戦により、台湾に国民党が逃げてきました。国民党は極端な反共主義で、台湾でたくさんの人を殺戮するなど、ひどいことをしました。国民党による独裁は38年間続きました。台湾には、オランダ、スペイン、中国、日本と入れ替わり立ち替わりやってきて統治していきました。1895年から1945年の50年間は日本の植民地でした。台湾は非常にかわいそうな立場にあったと思います。

 

アメリカ、そしてカナダへ

 私は台湾大学の医科に通い、医師になる勉強をしました。大学卒業後の1959年、アメリカに渡りました。「Exchange Visitors Visa」という5年間有効のビザを得て、産婦人科の専門の勉強をしました。アメリカに行ってみて、これが民主国家だとびっくりしましたね。一方、自分たちのいた台湾は非常に窮屈なところだったと感じました。あの頃の台湾は強いマインドコントロールの状態にありましたから。アメリカのシカゴとデトロイトで合計5年間のトレーニングを修了し、アメリカを去らなくてはならなくなりました。が、台湾には戻りたくなかった。その頃、カナダの移民政策が開放的になっていましたし、医者も必要だったんでしょう。申請したらすんなりと通りました。1964年のことです。

 カナダではアメリカで受けた医師としてのトレーニングをすべて承認してくれましたので、すぐにライセンスを取って開業し、34年間従事しました。カナダには感謝しています。多文化主義のもと、自分が台湾人であるということを、肩身の狭い思いをしないでいれるということに感謝しています。このコミュニティーの一員となることで彼らも私をリスペクトしてくれる。医者としての生涯は全部ここにある。この地が機会を与えてくれたんですね。ここで家族を形成し、ここが自分のホームであると感じてます。カナダではタイワニーズ・カナディアン(Taiwanise-Canadian)で あることをすんなりと受け入れられます。 

 

カナダで見出したアイデンティティー

 いつも「自分は何か」という根本的な問いかけをしていました。満州国にいた時は小さかったので、そういうことを考えていなかった。台湾に帰ったら、思想制限があってそういうことを考えてはいけないというような雰囲気だった。カナダに来て、ようやくこうしたことを考えるようになりました。「自分は日本人、中国人、何だろう? 文化とは何か、自分の文化は何か」。私は、アイデンティティーを作り上げるものには、その人が経験してきたことが主に関係していると思います。親とか先祖で決まるとは限らない。昔、中国残留孤児が本当の両親を探しに来日したことをニュースで見ました。彼らの姿を見てびっくりしたのは、彼らは純粋な日本人なのに、見た目はすっかり中国人になっていたこと。住んでいる環境で人は作られるんでしょうね。経験はアイデンティティーをかたちづくる主要な要素なのだと思います。

 私の経験は台湾人としてはそれほど珍しくはないですよ。台湾人は特別な背景を持っています。私は小さい頃は自分のことを日本人だと思ってました。日本人として中学校1年の最初の頃まで教育を受けましたしね。(日系カナダ人作家の)ジョイ・コガワが強制収容所に入れられたのは6歳の時でした。後にその時のことを、詩の中で「白人だったらよかったのに」(と思っていた)と書きました。実は僕は昔、日本人だったらよかったのにと思ったこともありました。でもカナダに来てからは、堂々としていられる。台湾がどうの、日本がどうのとかいっていては尊敬されない。ここの人になったらここの人の果たすべき義務を果たすことが大切なんです。「ここが私のホームであり、私のルーツは台湾にある」ということは、相互に排他的なのではなく、相互に補完しあっている、お互いにいい影響をもたらすものだと思います。

 これは余談ですが、カナダでは旧暦正月は今までチャイニーズ・ニューイヤーと呼ばれていました。でも旧正月を祝うのは中国だけでなく、韓国やベトナムなどでも祝われています。だからこの名前はおかしい、ということを新聞に投稿したことがあります。ルーナー・ニューイヤー(Lunar New Year)というべきだと。バンクーバーサンではその後、名前の表記を変えました。自分のおかげとはもちろん思ってませんよ(笑)。他にも同じような投稿をした人はいたでしょうから。そして、CBCにも同じメールを送りました。3週間くらい後、トロント本部のバイスプレジデントが電話してきました。彼らもこのことについて自分たちで調査して納得したので、これからは呼び方を変えると決定したというのです。びっくりしました。彼らが自分たちでもきちんとその件について調べたということが、プロフェッショナルであること。そして、私に直接電話をしてくれたこと、つまり私の意見が尊重されたということ、この2つに感動しました。

 台湾フェスティバルでは、台湾の作家ジュリア・リン氏がヤン氏の体験をもとにした著作『Shadows of the Crimson Sun』の出版発表を兼ねて講演を行う。ヤン氏もVTRで出演することになっているとのことだ。

(取材 大島 多紀子)

 

ジュリア・リン氏講演会
日時:9月4日、12pm
開場、1pm 開演
場所:Annex :823 Seymour Street(Seymour × Robson)

 

 

医師として活躍していた頃。1988年(写真提供 チャールズ・ヤン氏)

 

 

1939年(小学校1〜2年生)頃(写真提供 チャールズ・ヤン氏)

 

読者の皆様へ

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