2017年7月27日 第30号

前菜は赤貝・きゅうり・うどのぬた、ロブスター梅酢がけ、帆立うに焼き、筍の土佐煮、菜の花からし和え、しめじ白和え…。倉島寧さんが考えた懐石料理メニューである。それは食した人々を目や舌で満足させただけでなく、倉島さんを突然襲った人生の危機に対して大きな役割を果たすものになった。

 

 

2017 年5月19 日、隣組で

 

東京の料亭で修行

 17歳で東京・渋谷の料亭「二の宮」に就職を果たし、1972年には麻布の料亭「花川」で仕事に就いた。調理長はどなりつけるタイプの人物ではなかったが「納得いくまで聞け。絶対失敗するな」と指導。刺身の切り方など思わぬ失敗をしてしまった時は、「やす、タバコ買いに行け!」「はいっ」。一服して調理長の気分がなだまる。そんなやりとりをしながら、倉島さんは料理人としての腕を磨いた。

 その後29歳で独立し、埼玉県の朝霞市で割烹料理店「竹也」をオープン。開店当初は不安もあったが、近くの銭湯に広告を出した甲斐もあって、近隣に社屋や寮のある富士フイルムや電電公社(現在のNTT)の社員たちがよく訪れる店となっていった。特に忘年会の時期は団体客で賑わい、自分で考えたメニューが出せる喜び、仕事のやりがいを感じる日々を送った。

 

カナダ・モントリオールへ

 海外に目を向けるきっかけは親戚のもたらした情報にあった。海外の大使館で勤務する男性の夫人たちと頻繁に交流のあった親戚が「トロントのプリンスホテルで日本食の調理人を募集してる」と倉島さんに声をかけたのである。

 バンクーバーで交通万博が開催された年の翌年の1987年、倉島さんは海を渡り、トロントへ赴いた。プリンスホテルに出社してわずか3日経ったばかりで、「こちらで働いてほしい」と同ホテルの系列であるモントリオールの日本食レストラン「桂」への異動が決まった。当時モントリオールにあった日本食レストランはわずかに数軒。「桂」は本格的な日本食の店として活気づいていた。

 ある時、店で在モントリオール日本国総領事館主催でヨーロッパ各国政府の領事たちを招いてのパーティーを行うことになり、倉島さんは大いに腕を振るった。ここで、料理はもちろんのこと、脇役として大きな貢献をした倉島さんの腕前がある。その話は東京での料理人時代にさかのぼる。

 

懐石料理を引き立てた脇役

 東京の料亭で包丁を握っていた頃、倉島さんがホテル・ニューオークラでのパーティーで仕事をした折、料理と共に氷の彫像が飾られているのを生まれて初めて目にした。料理を引き立てる氷の美しさに感激し、「よし、自分も」とすぐさま東京・築地にある行きつけの包丁店「正本」に足を運び、ノミを購入。自分で技術を磨いた。氷の業者と違い、店に冷蔵室があるわけではない。氷を少し削っては冷凍庫に入れ、また少し削っては冷凍庫で冷やす。そうした地道な作業を繰り返して、透明な美を創り出した。

 モントリオールの「桂」で開いた領事館主催のパーティーでは、この氷の彫刻の腕前も披露したのである。そして年月を重ねて磨いた懐石料理の繊細な技で、目も舌も喜ばせる品々を、客人たちの前に堂々と提供した。

 「こんな料理は見たことがない。カルチャーショックだ」と語るほど、とりわけ大きな驚きを見せたのはフランス領事だった。彼は「私はあなたに現金でお礼をするような野暮なことはしません」と言って、後日、倉島さんにネクタイを贈った。ワインレッドを基調としたそのネクタイは、倉島さんにとって今も特別な意味を持ち続けている。

 「桂」は仕事にハリがあり、やりがいのある職場ではあったが、モントリオールの冬の寒さは堪えがたいものがあった。そしてより温暖な場所へと向かった先がバンクーバーだった。

 

バンクーバーでの一歩

 1992年にバンクーバーダウンタウンの「KOJI(こうじ)レストラン」に就職し、バンクーバーの地に慣れた後、1994年にノースバンクーバーのキーマーケットでテイクアウトの寿司店「あけぼの」を独立開業。8坪の敷地の店舗を一人で切り盛りした。「普段の売り上げは、キーマーケット内の店全体の中で、下から数えたほうが早いくらいでしたが、クリスマス時期は違いました」。パーティートレーの注文が1日20件入るのも普通。量がいくら増えようとも、倉島さんは寿司のクオリティを決める大事なネタの仕込みに多くの時間を費やした。

 

ノースバンクーバーに「㐂多鮨」を開店

 店は自分一人で忙しいながら自分の手の内で何でもできる。小さなテイクアウト店ゆえの大変さ、メリット、それぞれある。それを承知で始めたビジネスだったが、時間が経つにつれ、もっと本格的な料理を出したい気持ちは、倉島さんの中で抑えきれない衝動となった。思い切って「あけぼの」を売却。ノースバンクーバーのウエストビューのショッピングモールに「㐂多鮨」をオープンしたのは1996年のことだ。そこから忙しさ、大変さの質は大転換する。自分の役割は、店全体のマネージメントとキッチンでの料理の担当と決めた。そして寿司職人、料理を運ぶ人、レジを担当する人を雇った。皆を統率する役割が生まれ、その中で忙しく動き回ったせいなのか。突然病魔が倉島さんを襲った。

 

意識不明の1週間そして再起

 「1999年4月16日のことでした」。その日、倉島さんは倒れた。脳梗塞だった。倒れてから昏睡状態のまま1週間。意識が戻った時、自分が何者か、何をしていたのかすら思い出せなかった。手足には力が入らなかった。病院から脳への強めの薬と精神安定剤が処方され、入院生活は3カ月に及んだ。体重は10キロ以上も減った。

 まだフラフラした状態で退院した、その1週間後、驚くことが起こった。ふと家の中に置かれていた紙が目に入った。料亭で出していたメニューだった。それを目にした瞬間一気に記憶が蘇ったのである。もちろん完全に戻ったわけではなかった。しかしそれは「口では言えない喜びでした」。

 その後も感情が高ぶると身体のコントロールを失うことはあったが、倒れた時には考えられない快復ぶりだった。「医者はどうして治ったのかわからないと言うけれど、これは人間の持っている潜在能力のなせる業です」。酒もタバコもとる習慣のなかった倉島さん。基礎体力への自信もあった。だが心身を蘇らせた源にあったのは、魂の力であると感じている。

 

ボランティア活動でコミュニティに技術を提供

 その後、店を手放したが、料理人として再び歩み出し、リタイア後はコミュニティに一層目を向けてきた。バンクーバーのカーネギー・コミュニティ・センターで2014年から日本食を紹介するボランティア活動を。そして隣組でも調理によるボランティア活動を行うと共に、日本食の材料の寄付も地道に続けてきた。今年8月のパウエル祭の隣組ブースでも倉島さん所有の品がディスプレーされる予定だ。

 「何事も一人ではできない。だから自分のできることを」ーーその思いに導かれてコミュニティー活動へ。再起を果たした身体は休むことなく動き続けている。  

(取材 平野 香利/写真提供 倉島 寧さん)

 

倉島寧(くらしま・やすし)さん
 1946 年新潟生まれ。東京育ち。東京の料亭で勤務後、独立し、埼玉県で割烹料理店を開く。1987 年カナダ・モントリオールの日本食レストラン「桂」、1992 年バンクーバーの「KOJ(I こうじ)レストラン」勤務を経て、ノースバンクーバーにテイクアウト寿司店「あけぼの」を開店。同店売却後、1996 年に「㐂多鮨」をオープン。同店売却後、2002 年「スシボーイ」入社。2004 年に退社し、日本へ帰国。東京・田町のレストラン「ニュートーキョー」に入社する。2005 年にはカナダに戻り、リッチモンドの日本食材店「イズミヤ」のキッチンに勤めた後、「テリヤキトビー」に入社。2014 年にリタイア後は、カーネギー・コミュニティ・センターや隣組でボランティア活動に情熱を傾けてきた。
 洋画が好き、日本史が好き。この分野で語らせたら何時間でも語ることができる人物である。

 

 

 

カーネギー・コミュニティ・センターで寿司を作る倉島寧さん

 

 

秋の懐石料理ーサツマイモで栗の形を、かぼちゃで葉っぱを、手前右の巻物は大根とスモークサーモンの一品

 

 

氷の彫刻を作ってお造りを盛り立てる

 

 

カナダの人たちに気軽に寿司を提供してきた

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。