2017年7月6日 第27号

2001年から開始した弊紙でのエッセイ「外から見る日本語」は、日本語教師として体験したことや見聞きした日本語に関するさまざまなトピックを取り上げ、読者からも好評だった。その連載は6月末で休止、7月からは新渡戸稲造をテーマとしたエッセイが始まる。新連載を控えて矢野修三さんに話を聞いた。

 

 

UBC新渡戸稲造紀念庭園にある胸像の写真を持つ矢野修三さん

 

ー16年間の連載でしたが、ネタには困りませんでしたか?

 実は、ネタに困ってます(笑)。(自分が教えている)日本語学習の上級者がたくさんいたり、木曜会のメンバーからも情報をもらったりして、それがネタになっていました。エッセイにも書いたことがありますが、最近感心したのが「当然」という漢字についての、日本語学習上級者からの質問(編集注:2017年2月23日号掲載)。「当然」という漢字には、なぜ犬が入っているのかと。「当たり前」という言葉があり「当然」と同じ意味なのに、なぜ「当前」と書かないのかと言うんです。考えもしなかったそんな質問に、自分でもいろいろと調べました。その人は、なぜ「猫舌」と言い「犬舌」とは言わないのか、と聞いてきたこともある。でも、これは日本の文化だと思うんですよ。日本では昔、犬は外で飼っていましたよね。外で飼っている犬が熱いものを食べて「キャー」とかやっているのを見ていないけど、猫は家の中にいるからよく見える。熱いものを食べて「キャット」驚くから、猫舌、と。「犬はホットドッグとかいうくらいだから熱いのは大丈夫なんだろう」とか冗談で言いました。最近は教えている人の中で上級者が少なくなってきて、ネタがなくなってきちゃったんですよね。それでちょっと大変になってきちゃったんですよ。

 

ーそれでそろそろかな〜ということになってきたわけですね?

 『楽しみに読んでます』と言っていただくことも多く、それはとても励みになるので、頑張ろうかなと思ったりはするんですけどね。ちょうど新渡戸稲造にのめりこんでいて、そのことについて書いてくださいと言ってくださる人も結構いました。新報さんからも、お話を頂いてました。でも両方書くのは無理、ということで『外から〜』はお休みして、新渡戸稲造について月1回で6回くらいのシリーズの予定で始めることにしたんです。

 

ーどのような内容になるでしょうか。

 まずは出会い、きっかけからですね。野球がまず、きっかけなんですよ。私は小学生の時に野球少年で、ピッチャーで4番と活躍していたんですよ。なので野球が好きで、日本にいたときは高校野球ももちろん見てました。

 2011年の秋、インターネットで新聞を読んでいたら、『朝日、読売、百年戦争か』という見出しを見つけました。(当時の)読売巨人軍の清武英利球団代表が、渡邉恒雄会長に反乱を起こして辞めさせられたことを、朝日新聞が大きく取り上げたそうなんです。それをまた別の新聞が取り上げ「百年戦争か」と。百年前というと1911年。アメリカから入ってきた野球をたくさんの学生がするようになっていて、この頃には野球熱がエスカレートしていたらしい。その時、朝日新聞が『野球害毒論』と題して、「学生は野球にうつつを抜かしていないで勉強しなさい」というキャンペーン記事を出したんです。数名の教育者がコメントを書いていて、そのトップバッターが新渡戸だったんです。新渡戸は「野球は賤戯であり、剛勇の気なし」と書いたんです。要は男のやるスポーツではないと。その翌年に読売新聞が反論し、野球が好きな教育者が弁解した。それで国民は読売新聞の方に共感して、読売が勝ったような形になった。朝日は購買率も下がっちゃって。それで1915年、朝日の大阪本社が高校野球の大会をスポンサーするようになったんです。

 私も新渡戸の『野球害毒論』を読んで「何、この人?」と思いました。新渡戸のことはもちろん知ってましたが、それほど詳しいわけではなかった。それがこの記事を読んで「なんだこれ」と思ったんです。ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)に紀念庭園がある人とは結びつかないわけですよ。それが、新渡戸に興味を持つことになったきっかけです。

 新渡戸稲造は1920年に国際連盟の事務次長になっています。第1次世界大戦も終わって世界が落ち着いてきた頃です。スウェーデンとフィンランドの間、バルト海に浮かぶオーランド諸島は、最初はスウェーデンの領土だったんですが、フィンランドがロシアを後ろ盾にして自治権を主張してきた。また戦争になっては困るということで、イギリスやドイツなんかが国際連盟に調停を持ち込んだんです。新渡戸がその時、「フィンランドに帰属するが、スウェーデン語を公用語として残し、高度な自治権を与える、軍隊は駐留させてはいけない」という裁定を下したんです。これが『新渡戸裁定』として高く評価された。これは特にフィンランドでは喜ばれた裁定で、いまだに教科書にも載っているということです。白黒はっきりさせない、非常に日本的なあいまいさがある素晴らしい裁定だと思うんですよ。

 

ー新渡戸稲造は台湾でも功績を残してますね。

 後藤新平から請われて台湾総督府の技師になりました。そこでサトウキビ畑の収穫を大幅に増やしたという功績があります。2014年にUBCの新渡戸紀念庭園に、台湾の人が作った新渡戸の胸像が寄贈されました。でも台湾でも新渡戸のことは、ほとんど知られていないんですよ。台南にある新渡戸稲造の紀念館に行けば、いろいろと資料がありますけど。その紀念館を訪れた時、胸像にカナダの国旗のピンを置いていっていいかと聞いたら、館長さんが快く承知してくれたんで置いてきました。

 

ー素晴らしい功績を数々残しているんですね。

 1926年に国際連盟の事務次長を退任しましたが、当時国際連盟に関わっていた人に言わせると「彼は人ではない、神だよ」という人もいたほどです。 

 その頃、日本ではどんどん軍部が強くなってきていました。1932年、松山で講演した新渡戸が新聞の取材を受けたとき、軍部が日本をダメにするだろう、と言ったそうです。その発言を新聞社が出してしまった。それで軍部からは新渡戸は非国民かと非難されるようになったんです。その後、アメリカに日本の立場を説明しに行くんですが、実は日本から逃げたんじゃないかなと思うんですね。しかしアメリカでは、日本の軍部の手下かと思われてしまう。日本とアメリカ両方から非難されてしまうんですね。それと、私は『野球害毒論』も関係しているんじゃないかと思う。アメリカ人にも、このことが伝わっていた可能性だってある。これは新渡戸を扱った本では全然書いてないですけどね。

 

ー晩年は不遇であったとのことですが。

 第二次世界大戦が始まる前には、新渡戸は非国民扱いですよ。「世界は一つ」とか「軍部が日本をダメにする」とか言ってたので。だから「早すぎた国際人」とも言われるわけです。戦争が終わって、だんだんと新渡戸の功績が見直されていったと思うんですが、なんでもっとそのことを日本の教科書に出さないのかな、と思いますね。若い世代なんて知らない人が多いですよね。1984年から2004年まで発行されていた5千円札には新渡戸稲造が印刷されていたんですけど、今の若い人はそれもあまり知らないからね。新渡戸は1933年にバンフでの国際会議に出席するためにカナダに来ています。その後、体調を崩してビクトリアで静養していましたが、当地で亡くなったんです。

 下田(静岡県)に宝福寺という寺があり、ここに唐人お吉の寺があるんですよ。お吉は、初代アメリカ総領事のハリスのもとに奉公に出された人です。実はハリスは体が弱いので看護婦さんを頼んだんですが、看護婦という概念が日本にはなかった。そこで女を出しましょうとなって、許嫁もいるのにハリスのところに行かされた。しばらくの間、ハリスのもとにいたけど、帰されてしまうんですね。でも、下田の人には外国人に身を任せた女として冷たく当たられてしまい、ついには投身自殺してしまった。バンフへ行く直前に、新渡戸稲造は下田を訪れ、お金を出してお吉のお墓を作ってくれと頼んでいった。それで、身投げした所にお墓ができたんです。新渡戸はビクトリアで客死してますので、完成した墓を見ていないんですね。新渡戸は日本のため、そしてアメリカとの懸け橋となるべく一生懸命やってきたんだけど報われなかった身の上を、お吉に重ね合わせていたんじゃないかな。私は下田に行って、新渡戸が泊まった旅籠だったのが、今はカフェになっているところを訪ねました。そこには稲造が宿帳に和歌(本人作ではない)を書いたものが残されています。これはあまり知られてない事実です。

 

 新渡戸稲造については、バンクーバーに来ている日本人でも知らない人が多いだろうと話す矢野さん。新しく始まるこのエッセイで詳しく紹介されるのが楽しみだ。

(取材 大島多紀子)

 

 

 

UBC新渡戸稲造紀念庭園にある胸像(写真提供 矢野修三さん)

 

 

新渡戸稲造が宿帳に残した和歌(写真提供 矢野修三さん)

 

 

新渡戸稲造が寄付して建てられたお吉の墓。お吉が淵と名付けられている(写真提供 矢野修三さん)

 

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。