2017年5月18日 第20号

2017年はカナダ建国150周年と特別な年だ。様々なイベントが行われているので、ご存知の読者も多いだろう。しかし、今年は新移民法が施行されてから50周年という節目を迎えることは、あまり知られていない。今でさえ異文化に寛容で、バンクーバー周辺では、中国系やインド系といったアジア人移民も多いが、以前は英国系のいわゆる「白人」が政権と経済を握る、差別的な移民政策であった。それを変えたのが1967年の新移民法だ。バンクーバーの日系コミュニティで長年、リーダーの一人として活躍しているゴードン門田さんに、新移民法および同法が施行された頃のことを聞いた。

 

 

ゴードン門田(門田亮)さん 

 

まず、新移民法について教えてください

 以前の移民法は「quota」、つまり「国別割当制」でした。ブリティッシュ・コロンビア州やアルバータ州といった西部カナダはイギリス系カナダ人が経済を握っていましたし、東のケベックやニューブランズウィックはフランス系の影響を強く受けていました。カナダは英連邦の一国で、いわゆる白人が黄色人種を差別する移民政策をとっていました。

 それをポイント制に変更したのが、1967年の新移民法です。人口が少ないことが経済が伸びない一因となっていると考えたためでした。年齢、学歴、英語やフランス語の能力、就労技能・経験、カナダにおける職種の需要を点数(ポイント)化して、各項目に点数があって50点以上あった人に移民を認めるというものです。カナダに近親者がいるかどうかも、ビザを出す際に考慮されました。1967年の新移民法施行により、カナダにおける移民受け入れは非差別的なものとなったとされています。実際は1966年の暮れごろから、新移民法の下で移民となった日本人がカナダに到着していました。

 

当時、どんな方がいらっしゃっていたのでしょう

 技術移民が多かったですね。美容師・理容師、溶接工、整備工などです。薬剤師や看護師も移民してきましたが、カナダの試験になかなか通らなくて苦労していました。美容師や理容師は言葉ができなくても、コミュニケーションが取れますが、薬剤師や看護師は英語が壁になっていました。

 設計士として移民してきたある人は、やはり英語ができなくて、こちらでライセンスが取れず、図面引きばかりしていました。

 私は1933年にカナダで生まれた日系2世で、かつ第二次戦争勃発後の1940年から1952年までの11年間、日本にいて、日本の高校を卒業しているので、新移住者に英語やカナダの習慣を教えたりもしました。カナディアン・パシフィック航空や総領事館に知人がいたり、カナダ大使館査証部によく出入りしていたので新移民に紹介されたり、サポートを頼まれました。

 多くはBC州にやってきましたが、トロントに行く人もいましたね。それから、アルバータ州レスブリッジ周辺には日系の農家も多くあって人手が足りないので、農業移民という枠ができて数十人はその枠で移民しています。

 農業移民の中には、農業の経験もないのに、ビザ欲しさに経験があるふりをしてやってきた人もいました。たとえ農業経験があった人でも、日本とは違い、冬は日が短くて夏は日が長いので、冬になるとバンクーバーに来たいという人が多かったです。

 1970年に、共同経営を行うOKギフトショップのバンフ店がオープンしました。その際、農業移民で来ていた人のうちから3人か4人雇用しています。

 新移民法施行は1967年で、その時には日本も経済大国として発展しつつありましたから、移民したいという人はカナダに憧れていた人が多かったですね。新移民法で、ものすごく増えたのは香港からの移民で、パスポートやビザを不法に手に入れて、その支払いとしてカナダに着いたらタダ働きさせられていた人が多数いました。

 日本からも観光ビザでやってきて、「もぐりこんだ」人もいます。1968年には私立大学の連盟の学生ツアーが初めて日本から来たのですが、参加者のうち4〜5人が同様に「もぐりこみ」ました。当時は強制送還などはありませんでした。

 

他に当時の思い出を伺いたいのですが

 1961年からJCCA(日系カナダ市民協会)の役員をしていたので、1967年にYMCAでカナダの日系二世と、新移民の交流の場を作りましたが、残念ながらあまり交わらなかったですね。日系二世は英語で、日本語はあまり上手でなかったですし、新移民は英語ができなかったりと、言葉の問題がありました。その頃は独身の新移民が多かったので、私の自宅もよく交流の場になっていました。

 新移民法で、カナダ政府つまりカナダ大使館も、日本からの移民を増やそうと努力していました。結果カナダに来る人たちは、カナダでの生活に期待をしていて、その分、実際カナダに来ると、言葉の問題などもあり、失望している人も多かったです。

 私も神田のYMCAや横浜にあった横浜移住斡旋所(*参照)で、カナダの話をしました。また、独身者が多かったので、ソフトボールチームを作ったりしました。ビュートストリートに赤れんがの建物が今もありますが、そこは日本からの女性も暮らしていたので、一部の日本人の男性が出会いを求めて、周辺でうろうろしていました。あの建物で暮らしているのは女性のみでした。独身者の社交はありませんでした。移住者同志で結婚する人も多かったです。

 悪い人もいましたよ。日本で食品サンプルを作る仕事をしていた、ある男性は、陶器の技術者として移住ビザを取得しましたが、僕とパートナーシップで仕事をすると嘘をついて、数人からお金を借りていました。僕とパートナーシップで仕事をするというので、お金を貸したという人が何人もいたので、びっくりしました。とんでもないと怒ったら泣いて謝ったんですけどね。

 

記憶に残る移民の人について教えてください

 日本で歯の技工士をされていた方は、アルバータへ行って、技工士をしないで、技工所を買いました。技工士をしていたので、安く作る方法を知っていましたね。その後、BC州でも会社を買いました。

 例えば1966年の暮れに移住してきて、雇われながら営業試験に合格して自分の店を持ち、50年経営して、昨年引退した理容師の方も成功した方といえると思います。

 また、日本で銀行勤めをしていたにもかかわらず、農業移民でアルバータに行った後、一年経たないうちにバンクーバーにきて魚の卸業で成功された方もいます。農業移民として来ていましたが、ある日系の会社が会計をする人を探していたときに、日本では銀行で働いていたということで採用されました。その後、魚を日本へ輸出する仕事をしていました。ある移民はお姉さんが、日本人で最初に薬剤師の試験にパスして、カナダで薬剤師になりました。彼は板金の仕事をしていたのですが、その後、旅行会社で働いていました。

(取材 西川 桂子)

 

ゴードン門田(門田亮)さん
1933年カナダで生まれる。1940年、日本を訪れている間に 開戦したため、1952年まで日本で暮らす。
グレーター・バンクーバー日系市民協会幹事長
グレーター・バンクーバー日系市民協会会長
全カナダ日系人協会初代会長
日系百年祭執行委員長
ナショナル日系ヘリテージセンター協会会長(現日系文化センター・日系博物館)理事長
キャナウェー・コンサルタント、オーナー
オーケーギフトショップ共同経営パートナー兼最高経営責任者

2005年 旭日小授章受章 
2015年 関西学院賞 受賞
2016年 日系トーマス正山アワード受賞

現在、自伝を執筆中。

*横浜移住斡旋所
外務省が1956年に設置したのが横浜移住斡旋所。その後、横浜移住センター、海外移住センターと名称を改めてきたが2002年に閉鎖された。

 

 

共同経営パートナー兼最高経営責任者を務めるオーケーギフトショップ前で

 

 

ゴードン門田(門田亮)さん 

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。