2016年11月17日 第47号

『不仲の母を介護し看取って気づいた人生でいちばん大切なこと』は、「決して仲がよいとはいえなかった」母親が、がんの告知を受けてから亡くなるまでの葛藤の日々を、川上澄江さんが振り返ったノンフィクションだ。以前バンクーバー新報でもコラムを書いていたことがあるライターの川上さんがカナダを訪れた機会に話を聞くことができた。

 

 

弊社に来社したときの川上澄江さん

 

本書はがん告知からお母さまが亡くなるまでの道のりを書いた本ですね。がん告知から亡くなるまで、どれだけの期間がありましたか?
 約2年です。

がんと分かったけれど、詳細を調べるために3カ月にわたり検査をされていたということでしょうか?
 そうです。まず健康診断にひっかかり、検査をしたら腫瘍マーカーが高かったので、がんらしいと分かりました。母は東京のがんを専門に扱う大病院での治療を希望したのですが、すぐに診てもらえるわけではありません。待っている3カ月ほどの間、地元の病院でも診てもらっていました。

お母さまのがんは珍しいタイプだったようで種々多々の検査の末に、「原発性腹膜がんと乳がんが別々に起こったダブルキャンサー(種類の違うがんが一緒に発病すること)」という診断が下りました。診断が下りたときのことを教えてください。
 がんの末期に腹膜に転移することが多いことから、腹膜がんというと末期がんと思う方が多いそうですが、実際は腹膜がんイコール末期とは限りません。ただ私自身はそういう知識すらありませんでした。ステージは『少なくとも3期』との診断でしたが、主治医は『末期』という表現はせず(ステージが進んでいても完治する患者さんもいらっしゃるため、現在は医師は末期という言い方をしないと後で知りました)、『根治』は難しいかもしれないということでした。根治と言われても、『こんち?』と漢字も思い浮かびませんでした。

『根絶の根に治る、です。つまり、がんを100%やっつけるのは難しいかもしれない、ということです』医師は、母から視線をそらさず、説明を続ける」とありましたね。はっきり患者本人に病状を説明するのですね?
 今は日本でも、がんの告知ははっきりと患者にします。ただ、あの時は、根治はしないだろうというだけで、あいまいな説明でした。

たとえば余命何年とか、そういった話はなかったのでしょうか?
 ありませんでした。以前なら「治療については先生にお任せ」という感じでしたが、今はインフォームドコンセントが徹底してきているので、医師も治療法についても「何もしない」ことも含めて、選択肢をきちんと伝えなければいけません。抗がん剤の副作用などについても説明します。
 母については、少なくともステージ3期というだけで、話を聞いたのは治療法などについてです。もっとも余命についてはこちらからあえて聞かなかったという事情もあります。母は最後まで自分からは聞かなかったし、知りたくなかったのでしょう。

患者への告知をはじめ、日本の医療の世界も随分、変わってきているようですね。
 今はインターネットでの情報収集が簡単になりました。セカンドオピニオンやサードオピニオンも当たり前です。結果的に膨大な情報を消化できない人も多いと思いますし、不安も多く、情報格差が存在します。

「病院で同居できる方はいないんですかと聞かれたわ」とお母さまから言われたというエピソードがありました。バンクーバーにいる日本人の中には、親が日本にいて、何かあっても介護できないという人が多いように思います。
 日本にいるから、海外にいるから、ということはないと思います。親も子どもも日本にいたとしても、仕事を含めて子どもにも生活があります。子どもが東京で親が地方だと、そう簡単に会いに行くこともできません。子どもが生活を全てやめて、介護に集中するというのはとても難しいです。だから介護する側は、できることをするしかないと思います。

本書では「24時間以上母と二人でいるのは絶対無理だ」というように、川上さんの気持ちも赤裸々に綴られています。自分の気持ちを冷静に判断するのは勇気がいることではありませんでしたか?
 病気の母と同居することができないと考えてしまったことに対する罪悪感は常にありました。また、この本を書いたおかげで、今になっても引きずっているようなところもあります。

両親が少しずつ衰えているのに気が付くくだりがあります。私も少し会わないうちに親が衰えていたりしてショックを受けることがあるので、本書の「老いというのは、こうやってひたひたと忍び寄るものなのか…」という部分が、とても印象的でした。
 親が歳を取るというのは誰でも同じです。でも、それを認めたくないという気持ちがあるのかもしれません。

川上さんには、妹さんとお兄さん、川上さんの3人兄弟のようですね。でも、お母様の介護では、お嬢さんがすでに大学生で、仕事もフリーランスだった川上さんが中心でした。そのことで、「もっと手伝ってくれたらいいのに」とか、兄妹との確執のようなものはありませんでしたか?
 妹は地方に住んでいた上、子どもが小さかったので物理的に無理ですし、仕事のある兄も病院に付き添うことはできません。私が一番自由のきく身でしたから、自然に私が行くことが多くなりました。介護をしなければならないのは、長男である兄のお嫁さんといった考え方は、今の東京の一般的な家庭にはありません。
 母は気が強かったので、医師や看護師に乱暴な言い方をすることがあったりして、周りがなだめたりしなければいけませんでしたが、そういうときに妹は「そうなんだ、大変だったね」と言ってあげることができ、母への対応がうまかったです。
 私は医師や病院に対する不満を聞かされると「精いっぱい頑張ってくださっているのに」と嫌な気分になりましたが、今になって一緒に怒ってあげればよかったのかと思います。母は合意がほしかっただけだったのではないか、共感してあげるのが大切だったのではないのか…と。

川上さんが受けていらっしゃったコーチングについて教えてください。コーチングが介護の日々の支えになっていたようですね。
 知り合いのドイツ人から、コーチングの資格を取ったのでクライアントを探しているというメールをもらい、始めました。母との関係を改善したいと思っていたので願ってもない機会だと思いました。
 始めたのは母にがんの診断が出て半年ぐらいしてからで、母が亡くなるまで1年半続けました。週一回、スカイプで話をするというもので、1回1時間です。コーチングのおかげで、冷静になることができたし、自分がどうしたいのか分かりました。

お母さまのがんが末期に近づき、自宅で暮らすのが厳しくなってきたときのために、家族で話し合って、緩和病棟を予約していました。でも、いざというときに、お母さまがキャンセルしていたことが分かりましたね。
 ショックでした。母が自分で、もしもの場合は入りたいというので、申し込んだもので、緩和病棟予約のために私は仕事を休んで一緒に面接に行ったりしていましたから、何でそんなことをするの? と怒りました。
 母と言い合いになって、二人の間が険悪になりました。でも、仲裁に入った父に、「お母さんは死の病と闘っているのだから、今のことは忘れろ」と言われました。

本を読ませていただいて、お母さまがホスピスに入るまで診てもらっていた病院の主治医の先生と、川上さん一家は強い信頼関係があったように感じました。
 この病院は地元にあって、最初、診てもらっていたのに、東京の専門病院がいいと母が言うので変わって、また戻ってきた病院です。いわば身勝手なことをしたのにもかかわらず、先生には本当によくしてもらいました。
 今、日本では病院は商業的になっています。テレビや雑誌の情報に加え、オンライン上で口コミ情報が絶えず流れていますから、そういった情報をもとに病院を変えるというのも珍しくありません。情報や選択肢がたくさんありすぎるので、それを整理する必要があります。
 確かに良い病院に行くことで、難しい病気も治ることがあると思いますが、どこまでできるかですね。基本的にはお医者様と信頼関係を築くことが大切ではないでしょうか。

(取材 西川 桂子)

 

川上澄江さんプロフィール
ノンフィクションライター、翻訳者。上智大学卒業後、新聞社、米通信社の記者を経て、90年からフリーランス。結婚してカナダに渡り出産、ブリティッシュ・コロンビア大学政治学部の修士号(女性学専攻)を取得。この時の体験をバンクーバー新報で4年間にわたり連載した。帰国して離婚。以降、ニュース番組の翻訳や企業インタビューなどを中心に活動しながら、1人娘を育てる。趣味はトライアスロンで、アイアンマンディスタンスを12回完走、100㎞ウルトラマラソンを2回完走の記録を持つ。

『不仲の母を介護し看取って気づいた人生でいちばん大切なこと』
ステージ3期のがんを宣告され、懸命に病気と闘う母を不憫に思う半面、「母を愛していない」と言葉にできる自分に罪悪感を抱く娘。母親に対して複雑な思いを抱えた娘の葛藤を描いたノンフィクション。著者が学んだ親の死後に後悔しないための20の人生レッスンを収載。 

 

 

川上澄江さん

 

 

 

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