日系プレースへの移転

40年前、自宅のリビングルームを開放して日本語学校を始めた村上陽子先生。生徒が増え、コミュニティーセンターからオフィス、小学校、教会のベースメントなど7回に渡る移転を繰り返した。
村上先生はこのことについて「30周年記念誌が出来るときに、夢のような出来事が起こりました。日系センターに迎えられたことです。もう移転しなくてもよい、生徒の作品を自由に展示できることが何よりの喜びでした」と語っている。
元PTA役員からも「公立の小学校で教室を借りるのは、規制があり大変でした。日系プレースへ移転が決まったときは私たちもとてもうれしく、ほっとしました」との声が聞かれた。

 

2世代に渡る卒業生
「40年前、母が通ったこの学園を私も卒業しました。村上先生の情熱に憧れています!」とスピーチしたマクラクレンちひろさん(09年卒)。レノビッチ法男さん(81年卒)は奥さんの祥子さんも学園の卒業生で、息子のたくま君(2年生)が現在学園に通っている。浜西正博さん(78年卒)のふたりの息子さんは学園の4年生と2年生。「卒業後40年が経ち、自分が年を取ったのを感じます」と笑った。
卒業生が語った思い出のスピーチのあと、村上先生は「懐かしい日々がよみがえり、胸がいっぱいになりました。天皇皇后両陛下にご訪問いただくというご縁に恵まれ、そして卒業生が2世代に渡って当学園で学んでいるということは教師冥利に尽きるうれしさでございます。(中略)皆さまとの出会いにより40周年を迎え、多大なご支援によりまして記念誌発行が出来ましたことを心から感謝申し上げます」と謝辞を述べた。

 

友だちや先生との『絆』
カナダに住む子どもたちにとって、日本語学習を続けることは容易ではない。この日、卒業生に「日本語学習はどうでしたか?」と尋ねると、「大変だったけど、週一回日本語学校の友だちに会うのが楽しみでした」「友だちと一緒に勉強したので(日本語学校を)続けられました」などの答えが返ってきた。
思い出を語った卒業生のひとり、バンクス安里子さん(01年卒)は、「休み時間に友だちと日本のアニメやマンガの話をしました。日本とのつながりを感じた時間でもありました」と当時を振り返った。
 こんなエピソードも聞かれた。「子どもに日本語学校かピアノかどちらかを辞めていいと言ったらどうする?と聞いたら、日本語学校を続けると言ったのでびっくりしました。友達と会うのが楽しみだからと言うのです。日本語学校の友達というのは、現地校とは違った強いつながりがあるようですね」と卒業生の母親。

 

送り迎え、ご苦労さま
子どもの日本語学習を支えながら、毎週送り迎えをした保護者たち。小宮秀人さん・むね美さん夫妻にはお子さんが4人。「上と下の子どもが11歳年が離れているので、学園への送り迎えは24年間続けました。末っ子の成(じょう)が今年卒業しました。後半は(成君が)自分で運転して通っていました」とむね美さん。
 成君は9月からUBCへ、友だちのボイコット悟士君はビクトリア大学へ進学予定とのこと。「日本語学校を卒業出来てうれしい」「将来はエンジニアになりたい」と豊富を語った。

 

再会の喜び
「学園に来るのは27年ぶりでしょうか。今日は教え子の荒巻奈々子さんと麻梨子さんがフラメンコを踊るのを見てびっくりしました」と山口千鶴先生。日本で幼稚園の教師をしていたことから、お子さんが5歳のときに村上先生に手紙を書き、このことがきっかけで学園に幼稚園科が新設されたという。「うちの息子は今32歳です。月日の経つのは早いですね」
各テーブルをまわり、懐かしそうに歓談した村上先生は「40年前から今までの卒業生や保護者、元職員、元役員という方々に今日お目にかかれて、本当にうれしいです。胸がいっぱいです」と感無量の様子だった。

 

日本語学校
「BC州日本語教育振興会が出来た1974年、最初に参加したのは4校でした。スティーブストン、バンクーバー、グラッドストーンと、今はなくなったもう一校。日本語学校を運営していくことは非常に大変なことですが、グラッドストーン日本語学園がこうして40周年を迎えたことは本当にすばらしいことです」と同会会長を12年務めた横山赳夫先生。
現在、グラッドストーン日本語学園は2歳児から高等科まで17クラス、生徒数350人以上の日本語学校に成長した。この日のプログラムには、クラスを表す17の桜が印刷されていた。
40周年の記念誌に選ばれた表題は『絆』。村上先生は「これからも生徒、保護者、教員、地域の方々との絆を大切にしながら、日本とカナダの架け橋となる子どもたちを育成し、生徒への愛情と教師への情熱を持って励んでいきたいと思います」と話している。


(取材 ルイーズ阿久沢)

 

 

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