この映画は、大阪で弁護士事務所を構える弁護士、廣田稔氏の情熱からスタートし、多くの人の協力を得て完成にこぎつけた。
廣田氏は、数値で表される効率だけを目指し、システム化された現代の学校教育のあり方に疑問を抱き、その解決策を探していた。彼の目にとまったのは、往年の旧制高校の教育姿勢だった。「自らが社会を担い、自分たちが世の中をよくするとの矜持、生きることへの感謝、勤勉や誠実の尊重、他への思いやり、物欲にとらわれない精神性といったものを共有したいという願いが動機です。」と映画のホームページで氏は語る。
旧制高校時代から得たもの、そして失ったもの
主人公の上田勝弥(三國連太郎)は戦前、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)のエースピッチャーだった。
平成13年、そんな彼の東京の自宅に、かつてのチームメンバーが同窓会誌の取材に訪れた。上田は、野球に青春をかけている高校三年生の孫・勝男もその場に呼び、当時の寮生生活の様子を聞かせる。
ストーム、名物教授の授業、消灯後もローソクだけで続く勉強会など、100パーセントお互いをさらけ出しながら切磋琢磨していく姿が、銀幕上に生き生きと描かれていく。
こうして当時の思い出を懐かしむ上田だが、なぜか戦後は故郷には一度も戻らず、また来年に予定されている七校野球部創部100年を記念しての旧制五校(現・熊本大学)との記念試合への出席も、何故か拒んでいた。
結局、孫の勝男が鹿児島大学を受験し、その100年記念試合への出場を目指すと語ったことや、かつての野球部時代の女房役、キャッチャーの西崎(織本順吉)が、この試合への出席を楽しみにしていたものの、病に勝てず逝去してしまったことなどから、上田はそれまでの意を翻し参加を決意する。
記念試合のため家族とともに鹿児島に向った上田は、再び孫に昔の話を始める。それは以前、寮生活のことを語った時のような楽しげなものではなく、心の奥底にしまっておきたい、でも伝えなければならないという重い記憶だった。
同じエースピッチャーでありながら、特攻で帰らぬ人となった弟・勝雄のこと。砲弾の降り注ぐ前線の病院で再開した、寮の大先輩である草野正吾(緒形直人)を、軍医でありながら見捨てなければならなかったことなど。「南方の島々にも、こん先の海の中にも、帰ってこれん者がいっぱいいるとよ」上田はそう孫に語りかける。
記念試合の会場となった人吉市の川上哲治記念球場に集まったOBたちの見守る中、かつての七校と五校のユニフォームを着た選手たちの試合が始まった。一球一球に全力を注ぐ勝男をはじめ七校メンバーに、戦死して今日の試合には参加できなった、かつての選手の在りし日の姿が重ねあわされていく。
鈴木さんが、この映画を通じて一番伝えたかったことは?
この映画に私が託したものは、この映画を見られて日常生活にもどった時に、皆さんが次の世代に残したい、語り継ぎたいと思っている想いや志を、伝えようとするきっかけというか、後押しとなる力となって伝わって欲しいという想いでした。
今回の上映は、ちょうど震災と同時期になってしまいましたが、あの地震と津波で被害にあわれた方々が、極限状態でも取り乱すことなく避難生活をし、復興にむけて歩もうとしている。この姿を目の当たりにして、日本人のアイデンティティーというかDNAは昔から消えることなく私たちの体内に存在していることを感じました。でも現代ではそれがなかなか発露されない。そこに働きかけられる映画であってほしいという願いでもあります。
そこで「伝えたい志がある。残したい想いがある。」というメッセージになったわけですね
この映画が普通の映画と大きく違うところは、製作費用をメセナ(映画の趣旨に賛同した一般人)からの提供でまかなっていることです。1500人を超える方が、私たちの想いを支持してくださいました。つまり、その方たちの分の想いも込められた映画なんです。そのみんなの想いが凝縮されたものにしようということで、このメッセージになりました。
最後の対抗試合では、ピッチャーの勝男が、特攻で帰らぬ人となった勝雄にボールを渡す場面があります。普通「継承」というテーマを表現するには、過去から現在へのバトンタッチを描写する手法を用います。それを逆にしたのは、いいものは輪廻転生するというか、かならずきちっと伝わっているんだということを表現したかったからなんです。
また試合をスタンドから見ていた七校OBたちの目に、戦争で命を落とし、この場に来られなかった仲間たちのユニフォーム姿が重なって見えるようにすることで、戦争がなければ彼らもこうしてプレーすることもできたのに・・・というメッセージも込められています。
太平洋さんにお伺いします。講談と映画という組み合わせは珍しいと思うのですが?
2007年のことですが大阪の天神祭で、私が映画応援講談を船上にて発表したのが、この映画とのご縁の始まりです。
そこから、上映前に短い講談をおこなってみようという話につながっていったわけです。これは、講談界という小さな世界が、映画界という大きな世界と組ませてもらった初めての企画です。
講談は戦前までは隆盛を極めていた古典芸能で、落語や浪曲などの他の芸能に影響を与えて来ました。逆に古い形を守ってきたがために、時代の流れに取り残されてしまったのが現状です。これではだめだと、新しい講談のあり方を模索していた時期でもあり、そういった意味で、これは大きな財産を頂いたという気持ちです。
田口さんは、この映画の海外上映に取り組まれて来たそうですが、映画との出会いは?
実は私の父が鹿児島大学出身で、製作の廣田さんとは同級生ということもあり、父から映画のことは聞いていました。
大学時代の父は建築学科で、ヨット部に所属していました。ちょうどその頃、部のクラブハウスを建てることになり、父がその設計を担当することになりました。ただ、父はクラブハウスの竣工予定よりも先に卒業する予定だったんですね。ところが「田口、まだできとらんぞ、どうすんねん」と言われて、その完成を見届けるために1年留年したそうです。
そんな話も聞いていたので、試写会で映画を観たら「ああ、こういうことだったんだな」と身近に感じられて。こういう映画に親父も関わっていたんだなという思いから、何か手伝えることがありましたらということで鈴木さんとお話したわけです。それから事務局の手伝いをさせてもらい、この映画を海外でも上映する機会を探してきたわけです。
最初は、どこかの映画フェスティバルにエントリーできればと考えていたのですが、あれこれと模索しているうちに様々なめぐりあいが生まれ、それまでは考えていなかったような形で海外上映を実現できることになったというのが、実際のところです。
今回のカナダでの上映の手ごたえはどうでしたか。
集まっていただいたみなさんの雰囲気は会場ごとに違っていたのですが、上映後にお話を伺うと、どこでも最終的に「日本人でよかった」というところに落ち着いていったんですね。このみなさんの感想こそが、最大の収穫でした。今後もこの映画で精進していく私たちに、もう一歩前に進む糧を頂いたと感謝しています。
それもこれも、こちらで上映の話が持ちあがった最初から奔走していただいた八木さん(バンクーバー日本語学校ならびに日系人会館理事)や川端さん(AKトラベル・カナダ社長)はじめ、多くの方の協力がなければ不可能なことでした。本当に人との出会いというか、ご縁というものに感謝しています。
みなさなんと映画との、これからの予定は?
この映画を、これからも多くの人に見ていただくために努力していきます。商業的には成功したとはいえず、メセナへの金銭的な還元はできませんでした。でもその分、太く長くではないですが、これからもいろんな機会を作っていきたいわけです。映画のホームページも、上映終了後は閉じるのが普通ですが、できるかぎり更新していって私たちの活動、想いを発信し続けていきます。最近では、5月4日に大阪、スポニチプラザ心斎橋で上映と懇談会を行いました。
実際そうやって努力していると、必ず道が開けるということを何度も体験してきています。「映画のDVDを、一枚だけで申し訳ないけど送ってくれないか」という一本の電話が縁になって、東京の学士会館での上映が実現したこともありました。
映画については素人としての出発だったので、本当に出来るのかという不安はありましたが、あきらめないことで様々な方とお会いでき、協力していただき、ここまで来られました。これからも、この出会いを大切に一歩一歩前へ進んでいこうと思っています。
3人それぞれにこの映画に対する想いを語っていただいた。お話を伺えば伺うほど、この映画の魅力が際立ってくるようだった。
(平野直樹)
「北辰斜にさすところ」公式ホームページhttp://www.hokushin-naname.jp/