岐阜県八百津町(やおつちょう)は、同町出身の外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)さんが、第二次世界大戦中、ユダヤ系避難民に発給した日本通過ビザと関係資料を、今年5月、ユネスコ記憶遺産に申請する。その準備に町役場では、国内のみならず海外からも多くの応援を受けながら、一丸となって取り組んでいる。

 

 

タウンプロモーション室の職員。左から、中山将さん、山内好仁さん、古田功さん、髙島賢さん

  

国内候補に決定

 2015年6月、日本ユネスコ国内委員会は、2017年ユネスコ記憶遺産登録の国内候補の公募に対し、16件の申請を受けた。

 9月24日、同委員会は、審議を経て決定した2件の候補を発表。一つは、群馬県にある特別史跡「上野三碑」(こうずけさんぴ)。もう一つは、岐阜県八百津町が申請した「命のビザ」と関連資料。

 1940年7月、リトアニア、カウナスの日本帝国領事館で杉原千畝領事代理は、窮地に追われた多くのユダヤ系避難民を目の当たりにする。苦慮の末、日本政府からの訓令に反し、自らの不利益も顧みず、人道・博愛精神が一番と、同年8月末まで大量の日本通過ビザを発給。6千にも及ぶ避難民の命がこのビザで救われたといわれる。現在、「命のビザ」あるいは「杉原ビザ」と呼ばれるゆえんだ。

 「その勇気ある行動と貴重な記録を日本の八百津町から発信し、世界中の人々の記憶にとどめ『世界平和』『命の大切さ』を後世に継承していきたい」。こう考えて、杉原さんの誕生地である同町では、「命のビザ」と関係資料をユネスコ記憶遺産に申請することを決めた。

 ビザ記載があるパスポート、「杉原リスト」とも呼ばれるビザ発給リストを含む外務省公信・公電、杉原さんの自筆による手記、日本上陸後の避難民に関する報告書・記録など、20点が申請物件に含まれた。

 国内候補に決定後、次はパリのユネスコ本部で記憶遺産としての承認・登録の審議を受けるため、今年5月までに同本部へ申請書を提出することになっている。

 

タウンプロモーション室始動

 八百津町役場では、日本ユネスコ委員会へ国内候補として名乗りを上げた昨年6月の後、8月1日には「タウンプロモーション室」が新設された。もちろん、「記憶遺産プロジェクト」の拠点となることが設置の目的の一つ。同時に、杉原関連も含め、町の繁栄のための事業の企画・推進役を担うことも視野に入れてのことだった。

 同室の4人の職員の士気も高い。室長の山内好仁さんは、国内候補の公募に申請した時の気持ちをこう語る。「国宝級の物件が15もあり、どれもすばらしい物ばかりだったので、日本代表の2件に選ばれるかとたいへん心配した」。幸い「杉原リスト」と関連資料については、ユネスコ国内委員会で高い評価を得て選ばれた。「本当にうれしかった」と言う。

 準備に時間があまりなかったが、申請書の作成に多くの関係者から協力を得ることができた。「これもやはり、杉原さんの人道的な行為のすばらしさに共感されてのこと。改めて杉原さんの偉大な功績を実感した」と振り返った。

 現在、同室では、日本国内のみならず、世界のさまざまな方面へ向けて、記憶遺産登録への協力要請に活発な作業を続けている。その進捗状況について、企画推進係長の中山将さんは次のように説明する。「申請書の作成は、おおむね順調に進んでいる。申請書類のさらなる充実のため、『杉原ビザ』受給者の50家族以上にコンタクトした。皆さんたいへん協力的で、勇気づけられる」。

 しかし、当時の資料の多くは散逸している。「今後も可能な限り広範に、より多くのビザ受給者や家族から情報を入手していきたい」と抱負を語った。

 

町内の熱気

 町役場の外でも、高揚が感じられる。町内の通り、店先、レストラン、旅館と、あちらこちらで「世界記憶遺産へ」と謳ったポスターが目を引く。

 町の観光協会では、「命のビザ」発給の際に押されたスタンプの周囲に「杉原千畝のふるさと岐阜県八百津町」と印刷した金色のシールを2万7千枚作成。和菓子店をはじめとする店舗で、商品の包装に貼ってもらっている。また、町の特産の一つである煎餅には、杉原千畝の肖像画が焼き込まれた商品が登場。観光客に人気だ。

 一方、同町の「杉原千畝記念館」では、以前は入場者数が1日平均90人ほどだったのが、記憶遺産の国内選考を通過した昨年9月以降は、それが270人超まで急増。10月には、2000年7月の開館以来の見学者が、30万人に達したことも重なった。

 館長の国枝大索さんは、「2015年の前半は戦後70年ということが、後半は記憶遺産の国内候補決定が、さらに、団体の受け入れ数を緩めたことも相まって、来館者の増加につながった」と語り、顔をほころばせる。

 

町長の欧州訪問

 八百津町の赤塚新吾町長は、昨年10月30日から11月6日まで、古田肇岐阜県知事と共にヨーロッパ表敬訪問を行った。記憶遺産の申請に向け、リトアニア、イスラエル、フランスの関係機関や、「命のビザ」受給者らに資料収集の協力を求めることが主な目的だった。

 政府関係者やユネスコ本部での面談、ビザ発給ゆかりの場所やホロコースト関連の記念館や博物館の視察、ビザ受給者との懇談など。スケジュールはぎっしりと詰まった。

 「人の命の大切さ、世界平和の大切さ」をアピールしたいと言う赤塚町長。訪れた各所で、杉原千畝の功績、八百津町とのかかわり、「命のビザ」関係書類がいかに記憶遺産にふさわしいものかなどについてスピーチを行った。これに対し、多くの共感、協力や応援の声が寄せられた。

 ビザ発給の場となったカウナス市の副市長は、「杉原千畝のおかげで歴史上の都市となった」と言い、今後も八百津町と交流を深めていきたいと期待を語った。

 イスラエルでは、ユダヤ教神学校を訪れた際、赤塚町長が日本人と分かって握手を求めてきた生徒がいた。「感激した」と同町長。

 各訪問地で撮られた多くの写真が、実り多い8日間であったことを物語っている。

 

新作映画も後押し

 タイミングよく、映画『杉原千畝 スギハラチウネ』の上映が、昨年12月5日、日本全国で一斉スタートした。

 監督はチェリン・グラック。撮影は、2014年9月から2カ月間、日本での場面も含め、全てポーランドで行われた。主演の俳優・唐沢寿明は、スパイ映画をほうふつさせる諜報活動ぶりを演じ、これまで映画やテレビで紹介されたのとは一味違った杉原千畝像を印象付ける。外交官の夫を献身的に支える妻の杉原幸子役には女優の小雪。さらに、日本人、ポーランド人のベテラン俳優陣が脇を固めている。

 昨年10月22日、この映画のワールドプレミアが、カウナス市で催された。杉原さんが同市に赴任した1939年に建てられた由緒ある映画館での上映。最後はスタンディングオベーションで沸いた。

 

バンクーバーからも声援

 バンクーバーに住む「命のビザ」受給者の家族からも、八百津町のプロジェクトを熱烈に歓迎する声があがっている。

 アラン・ベイレスさんは、父親がビザ受給者だった。「杉原千畝は、並々ならぬ勇気をもっていた人。関連資料は記憶遺産に充分値する。彼は、私の父ボルフ・ベイレスと何千もの避難民の命を、ビザ発給で救った。それが、日本政府から認められず、外交官としての立場が損なわれるかもしれないと承知していたにもかかわらず」。実際、杉原さんは外務省を追われた。

 「杉原がとった行動は、現在ヨーロッパで起こっている避難民の状況にもあてはめられる。『命のビザ』登録により、ユネスコは、難しい判断を迫られている国々や人々に示唆を与えることができるかもしれない」。こうベイレスさんは期待した。

 また、ワレンバーグ・スギハラ・シビルカレッジ・ソサエティー(Wallenberg Sugihara Civil Courage Society、www.wsccs.ca)の理事、デボラ・ロス-グレイマンさんもこう言う。「私の母ネハマ・ラムは『命のビザ』受給者だった。杉原は母の命を救い、そのおかげで私がこの世に誕生した。社会的正義のための勇気。それだけに感動して、杉原千畝の功績を讃えているのではない。私が今生きていること自体、杉原の勇気ある決断の結果」と強調。「彼の偉業は、『一人ででも状況は変えうる』ことの例として、また、全世界の人々の手本として、ユネスコにより永久に記憶されるに値する」と賛同した。  

 76年前、動乱のヨーロッパで、杉原千畝さんが発給した日本通過ビザで命を救われた数多くの受給者と、全世界に散らばり今では数万とも言われる子孫らからの熱い視線が八百津町に注がれているかのようだ。

 頑張れ、八百津町! ユネスコ記憶遺産に向かって!  

(取材 高橋百合)

 

ユネスコ記憶遺産

国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、手書き原稿、書籍、ポスター、図面、地図、音楽、写真、映画等、世界的重要性を有する物件を広く公開することを目的として、1997年から行っている認定・登録事業。審査は2年毎で、一度の審査に申請できるのは1国2件まで。現在、348件が認定・登録されている。

日本では、山本作兵衛炭鉱記録画・記録文書(2011年)、御堂関白記、慶長遣欧使節関係資料(2013年)、シベリア抑留等日本人の本国引き上げの記録、東大寺百合文書(2015年)が登録された。

ベートーベン交響曲第9番の自筆譜(ドイツ、2001年)、アンネの日記(オランダ、2009年)、ホロコースト犠牲者名・証言の記録(イスラエル、2013年)等も登録されている。

 

カウナス市の杉原記念館で記帳する赤塚新吾八百津町長。左は、古田肇岐阜県知事。(岐阜県八百津町提供)

 

八百津町にある杉原千畝記念館

 

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